ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その2]池錫永家址・校洞小学校・雲峴宮など

2019-06-24 23:48:30 | 韓国旅行の記録
 → 2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その1]トドク焼きを初めて食べる

 以下、紺色の部分が元のS氏の日記部分、黒字の部分が私ヌルボの補足等です。

◎11月14日(水)・前半

 疲れたせいか8時過ぎに目が醒める。隣のベッドのヌルボさんは死んだように静かに眠っていたがそのうち目が醒めたようでベットの中でパソコンをいじりだした。今日の行き先の情報でも仕入れているのだろう。
 今日は先ず西大門駅に行き独立門を見学。その後1時に私がバイト先で知り合ったSさんと新村駅で合流し市内を回った後7時ごろ自由行動ぼ予定。
 とりあえずは朝食から。ヌルボさんが、楽園市場ビルの地下に食堂があるのでそこに行って見ようと提案。人気のない階段を降りると先ず肉屋さんと米などを売っている店が目に入る。
 その奥に食堂が数軒並んでいる。広い居ぬきの倉庫のようなところに椅子とテーブルを並べただけの店だ。古い建物なので昭和の光景を思い出す。壁の両脇にそれぞれの店舗の厨房がありその前が通路。通路に挟まれた中央に椅子とテーブルが置いてある。どの店も数種類のメニューを店先に掲げている。どれも似たり寄ったりなのでとりあえず腰を掛ける。
 代表的なメニューはチャンチ麵。チャンチは宴の意味。1杯250円。それぞれ同じ物を注文。配達のためなのだろうか、席の隣の通路はバイクが往来している。暖かいにゅう麵の上に刻んだ油揚げ、金糸卵、葱等が乗っかった物が出てきた。塩加減はほど良く量も多い。それなりに満足できる朝食にありついた。
 一旦ホテルに戻り出発。
 天気は上々。ポプラ並木からはらはらと落ち葉。乾いた涼気と相俟って気持ちがいい。ヌルボさんの雨男の称号も返上だ。
 ソウルには至るところに功績のあった人を紹介する石碑がある。早速ヌルボさんが石碑を見つける。種痘法を普及させた人の住居があったところらしい。ヌルボさんが韓国語のチョンドゥを即座に種痘と判断してしまうのは流石だ。
 その前には校洞小学校がある。歴史と由緒があるらしい。ここでは明日行われる修能(スヌン)試験、日本でいういわゆるセンター試験のようなものの会場となっている。
 ここから安国駅へ行く途中に雲峴宮(ウニョングン)という王族の邸宅が公開されている。朝鮮王朝末期の国王、高宗、その父大院君が暮らした建物で多くの政争、政変、権謀術数が渦巻いた場所でもある。今では観光名所の一つとなり修学旅行生も訪れる静かな場所となっている。敷地は広くはないが、奥に入ると赤く色づいた柿が青空を背景にたわわに実っているのが印象的だ。


〇楽園市場ビルの地下の食堂と、チャンチ麵については→コチラの記事で書きました。写真あり。

〇「種痘法(종두법)を普及させた人」とは池錫永(チ・ソギョン.지석영)という人物です。
   
 楽園商街から安国駅方面に北上する三一大路(上左)の東側歩道脇に「池錫永家址」の小さな石碑がありました。(上右) 読んでみると、「種痘法普及と西洋医学導入、国文研究に大きな業績を残した池錫永(1855~1935)の家址」と刻まれていす。私ヌルボ、この碑を見た時には彼の名を知りませんでしたが、その後調べていろんなことがわかりました。
 ところが、わかったことを書き始めたらそれだけで分量が多くなり過ぎることに気づいたので、別記事を立てることにしました。要は、韓国では種痘法を始めた近代医学史上の偉人として、あるいは漢字の意味をハングルで解析した「字典釈要」刊行等国語学の面でもよく知られた人物ということです。

校洞(キョドン. 교동)初等学校の前は、これまでも何度か歩いたことはありますが、大体は夜酒に酔って通り過ぎるだけだったためかとくに注意を払ったことはありませんでした。
   
 この日は朝10時40分頃。4、5人の人たちが校門周辺の掃除をしていました(上左)が、児童たちの姿は見えず。校門脇に上の池錫永のものよりずっと大きな石碑がありました。「官立校洞小学校 この学校は1894年(高宗31年)9月18日開校した韓国最初の初等学校である」とあります。私ヌルボ、その時で<キョドン>といえば2012年暮れに初めて行った<キョドンジョンソンセン>というジョン(チヂミ)専門のチェーン店を知るだけでした。(→過去記事) その漢字もなんとなく<教洞>かなと思っていたのが、<校洞>が正しいことを知りました。※なぜか日本の韓国グルメサイト等にはなぜか<橋洞銭先生>などと非常に疑わしい表記が広まっています。<ジョン>も<銭>ではなく<煎>なのに。高麗時代にこの近くに郷校があったため郷校洞あるいは校洞と呼ばれるようになったということです。

 学校のセメント塀には、学校の長い歴史を説明するパネルがいくつも掲げられています。

   
 1894~2015年の略年表(上左はその最初の部分)。開校時は王族や貴族の子弟のみの学校だったそうです。上右は木造校舎を背にした1918年の卒業生たち。校名は「校洞公立普通学校」とあります。(※日本人が通う<小学校>に対し、朝鮮人の子供が通ったのが<普通学校>です。)

 
 上左は1920年代の校舎全景。煉瓦造のずいぶん立派な建物です。上右は、北側の出入り口。横断幕に「2019学年度大学修学能力試験 ソウル特別市教育庁第15地区第21試験場」とあります・・・が、アレッ!? その下の学校名が「서울경운학교(ソウルキョンウン(慶雲)学校)」となっているではないですか! 門の左の看板にもそう記されています。別棟のようですが、同じ敷地内で同じ校庭に面しているし・・・。後で調べたら2002年に開校した特別支援校(幼稚園~高校の児童・生徒対象)なのですね。
 ますます細かい話になりますが、この校洞初等学校(と慶雲学校)の所在地は現在は慶雲洞となっています。校洞は現在はなく、慶雲洞の南に隣接する楽園洞の一部になっています。
 2段上左の正門上の横断幕を見ると「ソウル特別市教育庁指定研究・モデル学校 「ソウル型小さな学校モデル校」運営」と記されています。
 ソウルの中心地の歴史ある学校ということで、かつては大勢の生徒が通った学校で、有名人も多数輩出してきました。韓国第4代大統領・尹潽善(ユン・ポソン)、映画にもなった「常緑樹」で知られる作家・沈薫(シム・フン)、「シバジ」等で有名な女優カン・スヨン等々。
 1963年には在学生数が5320人(!)にも及び、中学校入試があった当時京畿中学校(1971年廃校)をはじめ名門校に多数進学したといいます。ところがソウルもドーナツ化現象が進み、100周年の1994年には在学生数が600人以下にまで減少。そしてこの10年の新入生数をみると2011年には9人まで落ち込みました。となると当然廃校の話も出てくるところですが、ソウル市は2016年に市内の全校生徒が200人以下の初等学校の中から所在地や歴史的象徴性などを考慮して7校及び200人を超える斎洞初等学校(安国駅の北側)も含め8校を<小さな学校>として指定し、予算をつけてスクールバスのサポート等をしたり、地区住民でなくても学校の近くに職場がある親の子弟なら入学できるようにしたそうです。その成果か(?)2016年からは新入生が27→28→29人と若干増えてきています。
 ・・・ということで、慶雲学校も児童減で空いた校舎(それも本館)の活用を図ったということなのでしょう。

〇校洞初等学校の北が徳成女子大学校、そしてその北隣りが雲峴宮(운현궁.ウニョングン)です。
 昔の朝鮮時代の王宮、・・・といっても景福宮・徳寿宮・昌徳宮等に比べると全然知られていないのでは? それらに比べるとずっと狭いし、大きくて目を引くような建造物もないし・・・。(いいのは無料という点。) 実は私ヌルボも初めて知ったのは5年前にジュニア向け歴史小説「갑신년의 세 친구(甲申年の3人の友)」(→感想等の記事)を読んだ時でした。つまり甲申事変(1884)頃の大院君の私邸だった関係で・・・(以下略)。

   
 こぢんまりとした建物ですが、いろいろ資料が展示されています。

   
 人形がけっこうリアル。 塀越しに見た紅葉が色鮮やかで、とてもキレイでした。

 → 2018年11月13~16日 ソウル旅行の記録 S氏の日記と、ヌルボの写真&補足 [その3]独立門・モレネ市場・延世大など


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