ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[韓国の<聖地>上海 ③] 2008年の<建国節>や<建国60周年記念>をめぐる論争

2014-02-24 23:40:47 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 前の記事[韓国の<聖地>上海②]からもう19日も経ってしまいました。

 そこでこのシリーズ[韓国の<聖地>上海]のテーマを確認しておくと、次のようなことです。

[1]韓国の現憲法(1987年制定)の前文には「3・1運動により建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抗挙した4.19民主理念を継承し・・・」と記されている。  
[2]したがって、盧泰愚以降、朴槿恵に至るまで大統領は訪中して上海の旧臨時政府の建物を訪ねているのは、<聖地訪問>である。
[3]1987年の憲法で初めて「大韓民国臨時政府の法統」の文言が盛り込まれたのはなぜか?
[4]大韓民国臨時政府(上海臨時政府)は現在の大韓民国と歴史的につながるものか、否か?
[5]「大韓民国臨時政府の法統」という文言や、現大韓民国の淵源・「歴史的アイデンティティ」について、韓国内ではどんな議論があるか?


 前回の記事を書いた後、韓国サイトをあれこれ見てみると、このテーマは知れば知るほどややこしくなるばかりです。それが続きがなかなか描けなかった大きな理由です。
 なぜ「ややこしい」のかといえば、韓国でも政治的・思想的立場によって<歴史認識>が大きく異なるから。
 <歴史認識>問題は日韓間のような国家間の問題には限らないのです。最近では、韓国内で「教学社の歴史教科書」問題がニュースでも大きく取り上げられ、また日本でも報道されましたね。

 で、そんなややこしい状況の中、現大韓民国の歴史的アイデンティティをわりと鮮明に読み取ることができる(?)事例として、2008年李明博大統領の時に催された<建国60周年記念行事>をめぐって巻き起こった論議と、同年の<建国節>制定をめくる論議を検証してみます。

 韓国についてそれなりの知識のある人なら、8月15日が韓国にとってどういう日かご存知でしょう。
 1945年8月15日。日本の植民地支配から解放された日で、<光復節>という祝日になっています。
 ※ウィキペディア(日本)の<光復節>の説明文(→コチラ)には「朝鮮の大日本帝国(日本)からの独立を祝う大韓民国の祝日」とあります。
 しかし私ヌルボ、以前から疑問に思っていたことは、「1945年8月15日に「独立万歳」を叫び、太極旗を振っていた人たちは、自分たちの「国」をどう認識していたのか?」ということです。政府が「ある」と認識していたかどうか? 「ある」とするとその指導者や政体は?
 ヌルボの見解としては、「解放」とは言えてもそれを「独立」とはいえないのでは? 独立していなかったから朝鮮信託統治問題が起こるわけだし、連合国軍の軍政下におかれていた日本が独立国でなかったように、同様に軍政下にあった南朝鮮が独立国だったとは言えないはずです。国号さえもなかったわけだし・・・。  
 実は韓国内でも「解放」「独立」「光復」「建国」等の言葉の解釈からして見解が分かれています


 さて、この8月15日という日は、1945年8月15日の<光復>の日であるだけでなく、1948年8月15日の、李承晩を大統領とした大韓民国が成立した日です。
 実はその時点では<光復節>という祝日(国慶節)はありませんでした。<光復節>が制定されたのは翌1949年9月からです。その年の8月15日は「第1周年独立記念日」でした。

 以来、「8月15日」といえば1945年の<光復節>を指すことがふつうとなり、その一方で1948年の大韓民国「建国」の意義が忘れられるようになった・・・と、あの(ニューライトの)李榮薫(イ・ヨンフン)ソウル大教授が問題提起したのが2006年7月でした。
 その流れで、2007年9月、ハンナラ党のチョン・カビュン議員は<光復節>を<建国節>に改称する内容を盛り込んだ祝日に関する法律の改正案を国会に提出しました。その理由は「1945年8月15日が重要視されて、建国日である1948年8月15日の意味は縮小されてきたので改称すべきだ」というものです。

 また、2008年李明博政府は大韓民国建国60年記念事業委員会を設立し、建国60周年記念行事の推進を図りました。これも1948年の大韓民国の成立を(ことさらに?)重視するものです。

 ところが、野党や大韓民国臨時政府記念事業会など55の団体は<建国節>の制定や建国60周年記念行事に反対する運動を展開しました。

 結局、建国60周年記念式典は開かれたものの野党は不参加、また<建国節>制定を内容とする法律改正案は同年9月に撤回されました。

     
   【建国60周年記念式典に反対の声を上げた民族団体。2008年8月14日タプコル公園。】

       
       【建国60周年記念式典。(2008年8月15日)】

     
   【8月14日に発行された建国60周年記念銀貨(直径35mm)。額面3万ウォンで5万枚鋳造された。】

 なぜこの8月14日を<光復節>から<建国節>に替える案や、李明博大統領が主導した建国60周年記念式典が大きな反発をよんだのかというと、その主な理由は次のようなものです。

①1945年の<光復>を否定するとなると、それまでの独立運動は一体何だったというのか? 独立運動があったからこそ、1945年の光復を迎えることができたのではないか? (これはとくに独立運動家の子孫等からの抗議。)  
②上海臨時政府の意義を軽んずるのか?
③大韓民国は李承晩が多くの国民の統一への熱望を抑えて建てられた国で、朝鮮半島の南半を統治するに過ぎず、朝鮮全土に及ぶ真の独立とはいえない。
④1948年の「建国」を讃揚する者たちは(親日派を排除しなかった等々問題の多い)李承晩に対して肯定的で、その後の軍政等も含む60年の政治についてもあまりに肯定的である。


 逆に言えば、たしかに李栄薫教授は李承晩に対して肯定的だし、また1945年の<光復>は日本からの「解放」ではあるが「独立(=「建国」)ではなく、また「大韓民国の建国は米国の日本帝国主義の解体と処理過程の産物であった」と<光復>に対して冷めた見方をしています。
 つまり、1945年の<光復>の意義は否定的に捉え、その後の発展の起点となる自由民主主義を掲げた1948年の<建国>を積極的に評価するという立場です。

 上記のように、<建国節>批判派が<光復節>=○、<建国節>=×と見るのに対し、<建国節>推進派は<光復節>=×、<建国節>=○と見るわけです。しかしそれまでは一般に<光復節>=○、<建国節>=○というのが一般的で、とくに問題にもならなかったようです。たとえば1958年の8.15記念式は「光復節13周年兼政府樹立10周年」で行われたし、朴正煕政権の時の1968年や1978年も同じ方法で記念行事が行われました。
 つまり<光復節>を否定する形で<建国節>が提起されたのは2006~08年のこの時が初めてでした。
 しかし、<光復節>が広く定着した今の韓国で、それを否定するような<建国節>の提起はやはり無理があったと私ヌルボは思います。

 さて、この<建国節>論議の中で、1948年の<建国>を否定する所説もいろいろ出てきました。
 韓国のウィキペディアに「대한민국 건국절 논쟁(大韓民国建国節論争)」という項目があります。(→コチラ。)
 そこには、いつが大韓民国の建国の日であるかについて次の5つの説があげられています。
 ①1919年4月11日   
 ②1919年4月13日
 ③1919年9月16日
 ④1945年8月15日
 ⑤1948年8月15日


 ④と⑤については上述の通り。(まだ書き足りませんが。)
 ①~③はすべて大韓民国臨時政府(上海臨時政府)関係です。
 ①~⑤それぞれに、それなりの根拠もあれば弱点もあります。続きではそれらについて見ていきます。