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ハンセン病と韓国文学② 高銀・韓何雲・徐廷柱・・・、韓国の著名詩人とハンセン病のこと

2013-04-03 23:52:43 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 3月20日の記事の続きです。
 ハンセン病と韓国をめぐるシリーズの7本目。ようやく最終回にたどりつきました。

 近年、ノーベル文学賞の選定の時期になると、韓国のメディアで話題になるのが詩人・高銀(コウン.1933~)です。(受賞の可能性がどれほどあるのか、私ヌルボは見当がつきませんが・・・。)
 彼の初の邦訳詩選集「高銀詩選集 いま、君に詩が来たのか」(藤原書店)が刊行されたのが2007年5月。「朝日新聞」の紹介記事中に、次のように書かれていました。
 「植民地時代に強要された日本名は高林虎助。中学生の時にハンセン病患者の詩集を拾い、詩人を志した。」
 もしかしたら、と思って、市立図書館でその本を読んでみると、高銀は自身の文学的回顧をかなり詳しく綴っています。で、該当箇所を見てみると・・・。

 「十里の新作路を通学する一人の中学生は夕暮れの路傍に落ちている詩集を拾い上げて家に帰り、夜が更けるまで読んでいると全身が泣き声で満ちあふれ、詩人になりたくなった。幼い蛾がクモの巣にかかったのである。」

 ・・・というわけで、その詩人や詩集は具体的には記されていませんでした。

 しかし今回、このブログ記事を書くにあたり少しムキになって韓国サイトを探したら、案外すぐ見つかりました。
 つ目は「朝鮮日報」のコラム<萬物相>。 2011年5月の「読書履歴制」と題したコラムの冒頭で次のようなことが書かれていました。

 「詩人高銀は1949年中学校2年生の時、ハンセン病詩人韓何雲(한하운.ハン・ハウン)の詩集を道で拾った。"行けども行けども赤い黄土の道・・・."と小鹿島に行く道を詠んだ詩を読みながら、ぽろぽろ涙を流して泣いた少年は、詩人になることにした。その翌日から彼は"物事をわきまえた大人"になったという。」

 また、KBS1TVでは2012年1月<韓国現代史の証言 永遠の青年、詩人高銀 1部>という番組が放映されました。KBSの番組紹介ページを見ると、上記のエピソードも盛り込まれています。そして1989年に高銀が書いた詩も載っています。

 1940年代の末、 
 2年生の時
 (中略)
 暗い道の真ん中
 目に輝く何かがあった
 どきっとして
 胸をときめかせて拾った
 本だった
 詩集だった
 韓何雲の詩集だった
 家に帰って
 一晩中読み、また読んだ
 (中略)
 その日以来、私は韓何雲だった
 その日以来、私はらい病人(문둥이.ムンドゥンイ)としてさすらった
 その日以来、私にとって全世界が黄土の道だった
 その日以来、私は詩人だった 悲しい悲しい詩人だった


  ※このKBSの記事ではハンセン病を나병と表記しています。「萬物相」の方は한센병。

 やっぱり韓何雲((1919∼1975)だったか、というのは、彼については7~8年前(?)に「中学生が必ず読むべき詩(중학생이 꼭 읽어야 할 시)」という本を読んで知っていたので・・・。この本はタイトル通りに崔南善以降1世紀の、韓国でよく知られた現代詩を集めた中で、とくに印象に残った詩が彼の代表作「麦笛(보리피리)」でした。

  보리피리 한하운\t      麦笛  韓何雲 (金素雲:訳)
 보리피리 불며       麦笛 吹き吹き
 봄 언덕            春の丘
 고향 그리워       ふるさと恋し
 피-ㄹ 닐니리.        ぴい ひょろろ

 보리피리 불며        麦笛 吹き吹き
 꽃 청산          花の山
 어린 때 그리워       幼な夢さえ
 피-ㄹ 닐니리.        ぴい ひょろろ

 보리피리 불며       麦笛 吹き吹き
 인환의 거리         往き交いの
 인간사 그리워       人の世恋し
 피-ㄹ 닐니리.        ぴい ひょろろ

 보리피리 불며      さすらう雲の
 바랑의 기산하      幾山河
 눙물의 언덕을 지나     涙の丘越え
 피-ㄹ 닐니리.       ぴい ひょろろ


 愁いを含んだ清澄な抒情と、懐かしさを感じさせる韻律が気に入りました。
 その後、韓国のハンセン病関係の資料を集めた日本語サイト<恨生(ハンセン)>に、この韓何雲の略歴(という以上に詳しい)や詩の紹介記事があることを知りました。(→コチラ。)
 そこには、上掲の「行けども 行けども 赤茶けた黄土の道」で始まる「全羅道の道―小鹿島へ行く道―」も訳出されています。
 そして、その作品も収められている「韓何雲詩抄」が刊行されたのが1949年5月だったとのこと。高銀少年が拾った詩集です。(※第2詩集「麦笛」の発行は1955年。)

      
  【この「韓何雲詩抄」を高銀少年が拾わなかったらどうなってたかな?】

 この<恨生(ハンセン)>の記事中に、彼が「1939年まで東京の成蹊高等学校で学んだ」と記されています。また「北原白秋や石川啄木らの影響も受け詩作活動にはいったようだ」とも。とすると、私ヌルボが感じた「懐かしさを感じさせる韻律」もそこらへんに由来するものかもしれません。

※小鹿島は1916年以来ハンセン病療養所があった島。今も小鹿島病院・生活資料館があります。そこの中央公園には、「麦笛」の詩を刻んだ韓何雲の詩碑があります。(→コチラコチラ参照。)

※→コチラのサイトでも韓何雲の詩が紹介されています。

 さて、ここでもう1人、1930年代から韓国を代表する詩人として旺盛な創作活動を続けてきた徐廷柱(ソ・ジョンジュ.1915~2000)がハンセン病者を素材とした作品を紹介します。
 国語の教科書にも「菊花の横で」が掲載されてきた誰でも知っている詩人です。(2000年代に入って「親日派」だった過去が問題視されて消えましたが・・・。→参考。) そういえば、後藤明生が1984年戦後初めて訪韓した時に彼と行動を共にしていますが、もう2人とも故人となってしまったんですね・・・。

 さて、その徐廷柱の詩なんですが、題からして「ムンドゥンイ(문둥이)」とそのものずばりで、その詩句がまたなんとも訳しにくいというか、紹介するみと自体がためらわれるというか・・・。

  문둥이             ムンドゥンイ(らい病者)
해와 하늘빛이            太陽と空の光が
문둥이는 서러워             ムンドゥンイはうらめしくて

보리밭에 달 뜨면            麦畑に月が浮かぶと
애기 하나 먹고            赤子ひとつ食べて

꽃처럼 붉은 울음을 밤새 울었다.    花のように赤く 夜どおし泣いた


 この詩については、文学教育関係の韓国サイトで説明・鑑賞が詳述されています。「この詩は天刑の呪われた運命を持ったらい病人の姿を借りて人間の本性を形象化した作品である。ここで"らい病人"は、実際のらい病人ではなく、詩人がとらえた人間の本性のいくつかの側面、暗くすさまじい運命の苦悩を象徴するものといえる」等々と説明されているのですが、私ヌルボとしては説明文中の「天刑」という言葉は不適切だし、それ以前に「赤子・・・」という詩句が大問題。前の記事で紹介した児童書でもこうした記述がありましたが・・・。私ヌルボとしては、この作品を、たとえば中学・高校の国語の授業で取り扱うことには大きな抵抗感があります。
 この詩は歌曲にもなって、YouTubeにもupされています。(→コチラ。)
 この歌は全然おどろおどろしくない、落ち着いた雰囲気なんですが・・・。
 韓国では私ヌルボが感じたような(たぶん多くの日本人も感じるような)抵抗感はないのでしょうか?

 差別に関わるような事柄と、文学や芸能・芸術等の表現活動との相克は、このシリーズでもタルチュム(仮面舞)のこと等でふれてきましたが、ホントにむずかしい問題です。・・・とヌルボの能力では紋切り型で終わるしかありません。

[韓国とハンセン病関連記事]

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 → <2005年毎日新聞・萩尾信也記者が連載記事「人の証し」で金夏日さんの軌跡を記す>

 → <ハングル点字のしくみを見て思ったこと>

 → <韓国の「ピョンシンチュム(病身舞)」のこと等>

 → <韓国のタルチュム(仮面舞)とハンセン病者のこと>

 → <ハンセン病と韓国文学①>