「親という字はな。立ち木を見るって書くからな。
親は木ィ植えねぇばおいねぇ。そんでも植えた木を見るだけだ。
売って金ンなンのは子か孫ってことだ」
私が小さい時、山の急斜面に杉苗を植え、
せっせと下草刈りに汗を流していた父の口癖だった。
その杉もだから60年に近いはずだ。
しかし一本の杉も売ったこともなければ買い手が来たこともない。
長い間、間伐もままならず、
かなりな数が台風でバキバキと折れたままで、
おそらく子である私も孫もお金を手にすることはまずなかろうと思う。
平成17年12月に肺がんで亡くなった父だが、
晩年は寂しそうに山を見ていた。
そんな父が植えた一本のすももがある。
畑の隅にもっさりと立っている。
毎年、実をつけたりつけなかったりで、この2~3年は実をつけても強風で全部落とされたりしてまったくだめだったのだが、
今年はどういうわけか文字通りたわわに実をつけている。
最近は強風が吹かなかったのがよかったのだろう。
このところあかるんできたので毎日のようにヒヨドリさんたちが来ていて、
近づくとばさばさばさと飛び去ってゆく。
食い時をよく知っていて熟れた実ばかりだ。
だから早いもの勝ちで、
少し明るんできたら採らないといいところを全部食われてしまうし、
けっこうぽとりと落ちやすい。
畑仕事や草刈の合間にもいでかじると甘酸っぱいいい香りがする。
冷蔵庫で冷やしておくといいおやつ代わりである。
よく「すもももももももものうち(李も桃も桃のうち)」と言うが、「桃も桃のうち」は当たりめぇだろうが、
などという野暮な詮索はやめて、
同じような旧作がある。かなり昔に作った動物バージョンである。
「うらにわにはにわにわにはにわにわとりがいました」というやつだ。
これに「さて、何羽でしょうか」とくっつけるとすぐわかる。
今まであちらこちらで宣伝したので少しは広まっているかどうかは知らぬが、
頭に浮かんだ時は我ながら傑作じゃなかろうかと一人にんまりとしていたことは秘密だ。
とまぁそんなことはど~でもいいがすももである。
親も子もこれからずっと立ち木を見るだけで終わりそうな我が家の山。
おそらくあちらこちらも同じなのだろう。
流した汗は報われる、とはなっていないが、
そもそも「親という字は立ち木を見ると書く」はお金の話ではないようだ。
親というのは成長する子を優しく見守るものだということらしい。
立ち木を仰ぎ見るように子は親を尊びなさない、という説もあると聞くが、
いずれにしても親父の説は他の人からは聞いたことがない。
自分の頭でいろいろ考えていた父らしいといえば父らしいが、
今頃、あちらでさぞがっかりしていることだろう。
甘酸っぱいすももの季節になると想いだす父の口癖だが、
昨今は親は親でも「おやおや」と呆れる話にこと欠かないのがちょっと心配である。
親は木ィ植えねぇばおいねぇ。そんでも植えた木を見るだけだ。
売って金ンなンのは子か孫ってことだ」
私が小さい時、山の急斜面に杉苗を植え、
せっせと下草刈りに汗を流していた父の口癖だった。
その杉もだから60年に近いはずだ。
しかし一本の杉も売ったこともなければ買い手が来たこともない。
長い間、間伐もままならず、
かなりな数が台風でバキバキと折れたままで、
おそらく子である私も孫もお金を手にすることはまずなかろうと思う。
平成17年12月に肺がんで亡くなった父だが、
晩年は寂しそうに山を見ていた。
そんな父が植えた一本のすももがある。
畑の隅にもっさりと立っている。
毎年、実をつけたりつけなかったりで、この2~3年は実をつけても強風で全部落とされたりしてまったくだめだったのだが、
今年はどういうわけか文字通りたわわに実をつけている。
最近は強風が吹かなかったのがよかったのだろう。
このところあかるんできたので毎日のようにヒヨドリさんたちが来ていて、
近づくとばさばさばさと飛び去ってゆく。
食い時をよく知っていて熟れた実ばかりだ。
だから早いもの勝ちで、
少し明るんできたら採らないといいところを全部食われてしまうし、
けっこうぽとりと落ちやすい。
畑仕事や草刈の合間にもいでかじると甘酸っぱいいい香りがする。
冷蔵庫で冷やしておくといいおやつ代わりである。
よく「すもももももももものうち(李も桃も桃のうち)」と言うが、「桃も桃のうち」は当たりめぇだろうが、
などという野暮な詮索はやめて、
同じような旧作がある。かなり昔に作った動物バージョンである。
「うらにわにはにわにわにはにわにわとりがいました」というやつだ。
これに「さて、何羽でしょうか」とくっつけるとすぐわかる。
今まであちらこちらで宣伝したので少しは広まっているかどうかは知らぬが、
頭に浮かんだ時は我ながら傑作じゃなかろうかと一人にんまりとしていたことは秘密だ。
とまぁそんなことはど~でもいいがすももである。
親も子もこれからずっと立ち木を見るだけで終わりそうな我が家の山。
おそらくあちらこちらも同じなのだろう。
流した汗は報われる、とはなっていないが、
そもそも「親という字は立ち木を見ると書く」はお金の話ではないようだ。
親というのは成長する子を優しく見守るものだということらしい。
立ち木を仰ぎ見るように子は親を尊びなさない、という説もあると聞くが、
いずれにしても親父の説は他の人からは聞いたことがない。
自分の頭でいろいろ考えていた父らしいといえば父らしいが、
今頃、あちらでさぞがっかりしていることだろう。
甘酸っぱいすももの季節になると想いだす父の口癖だが、
昨今は親は親でも「おやおや」と呆れる話にこと欠かないのがちょっと心配である。
実のなる木で、切って後悔したのは枇杷と無花果ですね。掃除がたいへんだと思って切ってしまったのですけど、それまで当たり前にあったものがなくなって、ちょっと落ち込みました。