今回、福島の市民放射能測定所で聞いた話では、やはり、天然、栽培を問わず、キノコの放射能が高い。また、イノシシやシカなど野生動物の肉の放射能が高く、食べることができないレベルだという。人間だけではない、というか、野生の生き物たちこそ、放射能の影響をもっとも深刻に受けているはずである。
飯舘村の小林麻里さんの所には、国内外からジャーナリストや映画監督、作家などが訪れている。今回は、水俣の漁師、緒方正人さんが来られて麻里さんと対話された。たまたまその現場に居合わせることができた。
緒方さんは、幼いときに父親を水俣病で亡くし、ご自身も水俣病の患者である。青年期には、患者団体の先頭にたって、チッソや政府を相手に訴訟や交渉にあたったリーダー的存在だった。しかし、30歳を超えたころ、大きな転機がやってきたという。いっさいの役職を辞して、活動をやめ、漁師の仕事に専念するようになった。
飯舘村の里山の中、高い放射線量の麻里さんの自宅前で、緒方さんと麻里さんは対話された。麻里さんが言うには、世間では人間の被曝しか問題にされていないが、森の植物や動物たちが放射能で被曝していることがとても悲しい。さらに除染と称して、土をはぎ木を伐るようなことをするのは耐えられない。飯舘村はもう除染せずに、自然にまかせて、人間はせいぜい通って来ることができればいいのではないか。
緒方さんは、水俣も同じだと応じた。人間の被害は問題にされ、補償や損害賠償の対象となる。しかし、一番迷惑を被ったのは自然の生き物たちなのに、彼らに対する何の問題意識も謝罪もない。もちろん、自然に対しては謝罪しようにもできない。つまり、オカネでは解決できない、とりかえしがつかない事態なのに、オカネで解決するしかないと考えること自体が、問題なのだと。
有機水銀による汚染にしろ、原発事故にしろ、人間の都合によって生じた事件である。科学技術によって人間が自然から浮き上がった存在になって、そのことで自然に迷惑をかけてしまったのに、その対応も人間の世界に閉じたものである。補償にしろ除染にしろ、その構図は、被害をもたらしたものと同じなのではないか。それでは問題は何も解決しないのではないか。それが初対面にもかかわらず、緒方さんと麻里さんに共通する認識だった。
緒方さんは、漁に出て網を入れてから揚げるまでの数時間、船の上で過ごしていると、もう自分もまわりの空と海と一体になっているような、幸せな気持ちになるという。麻里さんも森の中で過ごしていると、自分が森の一部として吸い込まれていくような感覚があるという。
危機的状況でこそ、人間の認識が試される。私はお二人の対話を聞きながら、自分でもアタマでは分かっているつもりだけれども、身体感覚としてそこまでの認識には至っていないことが痛感された。福島の現実は、人間も生態系の一部であることを人間たちに伝えるための過酷なレッスンなのだろうか。
イノシシ肉の放射線量を見て、食品の汚染ととらえるだけでは足らない。野生動物の内部被曝ととらえ、さらにそれを食べる人間への影響と考えなければならない。福島はまさに持続可能な社会をつくるための厳しい学校である。