愛知県豊田市の保見団地を訪問した。県営と公団の住宅が集まっている美しい緑の中の団地街だ。人口の半分以上が外国籍の人々であることで全国的に有名である。団地内の看板や表示はすべて日本語とポルトガル語の併記だ。そんな公団住宅の一角で外国籍のこどもたちへの学習支援をしているNPO法人こどもの国の活動を拝見した。
この団地に日系ブラジルを中心とする外国人が集まりはじめたのは90年代後半からのことである。日系人に就業機会を開放する政策がはじまってから、ブラジルやペルーから続々と日系人がやってきた。こどもの国のボランティアの一人の方は、この団地で生まれ育った日本人で、中学生のころ外国籍の生徒が急に増えたという。当初はなにかと歓迎ムードがあり、中学校でもお互いの言葉や文化を大切にする空気があったという。
それが一変したのは、右翼の街宣カーがやってくる事件があってからだ。右翼は外国人排斥を叫び、ブラジル人との間に小競り合いが生じた。自動車が燃やされたりと騒然とした時期があったという。
日常生活の習慣の違いからくるトラブルも目立ちはじめた。ブラジル人はベランダでバーベキューをする。そうするともうもうと煙があがって、火事かと思った周辺の住民の通報で消防車が駆けつける、ということがしばしばあったという。また、パーティの時に誰彼なく生卵を投げつけるという習慣も日本人にとってはとんでもない行為だった。
そういう状況の中で中学校の空気も変わっていったという。「ここは日本人のための学校だ」と露骨に外国籍の生徒に言い放つ教師もいたという。
今ではまた、空気は変わってきて、日本人と外国籍の人々との共生をすすめる雰囲気が団地でも学校でもでてきたという。今ではブラジル人もベランダではバーベキューはしないという。
ブラジルやペルーから来たおとなたちは日系人とはいっても日本語はしゃべれない。工場で働く仲間もほとんど同国人なので、日本語を話す必要がなく、おとなたちの間では日本語を学ぼうという意欲はほとんどないという。家庭での会話も見るビデオもポルトガル語やスペイン語である。こどもの国のとなりには小さなスーパーがあるが、ここはブラジルの食材がならびすべてポルトガル語表示で、店内の会話もポルトガル語である。
一方、こどもたちは学校では日本語で授業を受ける。こどもの国のような学習支援組織の働きかけもあって、豊田市は保見地区にある二つの小学校に対してかなり手厚く日本語支援の教員やボランティアスタッフを配置しているという。そのかいあって、こどもたちは日本語ができるようになってきた。
しかし、学力面ではやはり不利だという。小学校の低学年では宿題で国語の教科書を家で音読し、それを親が聞いてあげてシートにチェックする、というのは全国どこの小学校でも行われているだろうが、たったそれだけのことが外国籍の親にはできないのである。家庭でのコミュニケーションが日本語ではないというのはやはり大きなハンディキャップなのだ。
一方、こどもたちはポルトガル語やスペイン語は学校で学ばないため、込み入った会話になるとできない。思春期になると心の動きも複雑になる。それをうまく親に伝えられなくて、親子のコミュニケーションがうまくいかなくなる例もあるという。
こどもたちがもっとも困難な状況になるのは、日本と母国を行ったり来たりする場合であるという。そうするとどちらの国でもきちんとした基礎教育を受けることができず、日本語も母国語もうまく身に付かないということになる。
「中学校を退学する」という事態がありうるとは私は夢にも思わなかったのだが、外国籍の生徒の場合はそれがあるのだ。こどもには基礎教育を受ける権利があるのだが、外国籍の親にはこどもに義務教育を受けさせる義務はないのだという。中学校に入ると急に学習内容は難しくなる。それで、授業についていけなくなると、休みがちになり、ぶらぶらしているのだったら働いた方がよい、と中学校を「退学」するこどもが少なからずいるという。
いったん退学すると、日本の制度では、中学校に入れるのは年齢で制限されているため、やっぱり中学を出たいと思っても復学はほぼ不可能だという。そして中学を卒業していなければ高校には入れない。
親は母国でそれなりの教育を受けている。日本に来ることによってそのこどもたちは親よりも学歴が下がってしまうのである。親よりも学歴が上がるのが普通の世界の中で、先進国日本の現実として、親よりも学歴が下がってしまうこどもたちがいるということに卒然とする。
そのようなこどもたちがそのまま大人になった時、日本の社会の中でうまくやっていけるのか。こどもの国の代表、井村美穂さんの一番の心配はそこにある。現実には、中学校を出ていないこどもたちが薬物使用など犯罪に巻き込まれる例があとをたたない。今は好景気なので仕事はあるが、少しでも景気にかげりが出たときに真っ先に失業するのはそのような青年たちである。
そこで、こどもの国では豊田市の委託を受ける形で、主に小学生の放課後の宿題をみる「ゆめの木教室」と、中学就学期以上で目的が見いだせずにいるこどもたちを集めて自分を見つめ自分が就きたい職業について考えるグループ「そら」を運営している。親たちを交えた交流会には最近やっと多くの親が参加するようになったという。
スタッフのみなさんのお話しを聞いていたら、玄関ではにぎやかな声が聞こえてきた。一斉下校で帰ってきたこどもたちだ。「ただいま~」といいながら教室に入り、大騒ぎになりながらも、さっそく宿題を取り出してはじめる子もいる。
井村さんによれば、自分から宿題をやるようにするまでがたいへんだったという。こどもたちのためと毅然とした姿勢で向かい合うことが必要だった。
ここに来ている子は約30人。こどもたちはみんな明るく人なつっこい。それぞれの宿題を5~6人のボランティアスタッフで見る。なかなかたいへんだ。私も何人かの宿題をみてあげた。小学校2年生の女の子は、明日クラスで発表する作文の朗読を聞いて欲しいという。将来の夢についてだった。ちょっとなまりがありたどたどしい感じではあるが、もう暗記していて立派に朗読できた。私は親に代わってチェックシートにサインをした。
小学校4年生の男の子はペルー国籍だ。サッカーが好きだという。算数の宿題をやったあといっしょにトランプをして遊んだ。お父さんは何時頃帰ってくるの?と聞くと、明日の朝だという。井村さんによれば、親たちは厳しい労働の毎日で疲れ果てているという。井村さんらは親たちに両親のどちらかは残業をせずにこどもたちと夕食をいっしょに取って欲しいと呼びかけている。
思えば、この子たちのひいおじいさん、おばあさんが日本からの移民として中南米に渡ったのである。貧しい日本のいなかから新しい土地を夢見て渡った人々の多くは、現実の厳しさに打ちひしがれた。開拓はほとんど失敗し、入植地を離れてどん底の生活を強いられた。そしていつか母国に帰ることが悲願となった。昭和の戦争の時には、中南米の日系移民たちは、終戦後しばらく日本は戦争に勝ったと思いこんでいた。天皇家の菊の御紋の付いた船が自分たちを迎えに来てくれると信じていたのである。ところがいつまでたっても船は来ない。真実を受け入れた人々は、その時はじめてそれぞれの国に根を下ろして生きていくことを決意する。それでこどもたちに教育を受けさせて、社会の中に溶け込ませていくのである。
そして時代はめぐり、日本が豊かな国になった。移民の子孫たちはもともとの「母国」へ出稼ぎに行くことになったのだ。しばらく稼いでから帰るつもりが、なかなか帰れないのは、祖父母たちの時と同じだ。人口が爆発的に増大し、高い失業率が続く中南米の母国にはもう帰る場所がないのだ。
そのこどもたちが「母国」の厳しい現実の中で、基礎教育が満足に受けられないせいで社会の最底辺に入って行かざるを得ないとすれば、これは二重の悲劇というべきだろう。
帰る途中、駐車場でさっきのペルー籍の男の子と出会った。サッカー教室に行くのだというが、その表情はこどもの国の教室でみせていた屈託のない笑顔とはちがい、闘争の場にいるような厳しい表情をしていた。こどもの国はこどもたちが安心してすごせるシェルターなのかもしれない。
井村さんはこれだけブラジル人、ペルー人がいながらリーダーとなる人がいないと指摘する。こどもたちを高校、大学へと進学させ、地域のリーダーを育てるのがこどもの国の大きな目標だ。これはまさに持続可能な開発のための教育(ESD, Education for Sustainable Development)である。井村さんたちの努力は続く。
リリ川村先生を 名古屋大学の教授にしたほうが良い。 出来るだけ速くブラジルに保見団地のブラジル人少年が帰国する事を願います。
団地で麻薬、覚せい剤、今日現在も販売、使用してるし誰も止めないですね。
最底辺の工場動労者が居ないと豊田市の工場はたちゆかない。工場で働かせる労働者だから
犯罪者を根絶やしにはしない。
もしもう少しさばけた名古屋大学の教授が居たら今放映中の映画第9地区を見せるとか
ネットでブラジル人が薬物販売をしてるサイト
栄4麻薬ディスコの動画を講義で見せるけどね
10数年経過してポルトガル語で1から10までも
数えられない人の話をありがたく聞いても
しょうももない感じがします。
団地に外部から来る人、変わり者やブラジル人で金儲け、20人のブラジル人に対して半年で
2000万円の補助金受給してたり、異常な事が
起きてるのに気がついないですね。