だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

言葉では足りない(3)

2012-10-23 22:48:13 | Weblog

 

 原発事故以来、二ヶ月に一度くらいのペースで福島を訪問しながら、自分にどういう支援ができるのか、模索してきた。そして見えてきた結論は、支援ということは原則として不可能ではないか、ということだ。

 私たちの暮らしは、社会制度や仕組み、ルールや契約といった<システム>の層と、人や自然との魂のレベルでのつながりの層が積み重なってできている。家族でさえ、それはまず制度であり、ルールであり、ひとつの<システム>である。そのシステムを構成し運営しながら、魂のレベルでの家族の絆や愛情が育まれる。一方、大企業とか政府とかとなると、巨大な<システム>となって魂のレベルはそぎ落とされていく。
 原発事故は、まさに<システム>としての事故である。避難区域に指定された地域の住民は、<システム>として故郷と生活基盤を強制的に剥奪された。避難区域に指定されていなくて、かつ放射能が相当にある地域の住民は、そこに留まって生活を続けるか、自主避難するかを、悩みながら今に至っている。自主避難した人たちも、母子だけで避難した場合と、お父さんも転職して家族で新しい地で生活を再興する場合がある。それぞれに<システム>としての生活の変化に翻弄されている。

 そして、どのような立場であっても、もっとも困っているのは魂のレベルでの悲しみや苦しみ、怒りの気持ちである。

 東電や政府は加害者として、この事故の責任を負わなくてはならない。今のところ避難区域に指定されて避難している住民に対しては当座の生活の補償は行われているが、土地建物や生活基盤を失ったことへの補償がどのように行われるのか、今のところまったく不透明である。また、それ以外の立場の住民への補償はほとんどない。特に自主避難した人々は確実に経済的に苦しくなっている。これらの補償はもちろん、十分にしてもらわなくてはいけない。ここをあいまいにされては困る。
 ただ、ここで混乱しがちなのだが、補償は、責任であって、支援ではない。
 東電や政府は<システム>である。いくら東電の社長が謝罪したところで、社長というのも<システム>の一つの機能にすぎない。そこに魂はない。できることと言えば、被害を金額で算出して、それを補償することである。それで被災者の生活は救えても魂は救えない。ましてや被曝によってもっとも迷惑をかけている自然の生き物たちにはどうしようもない。

 では被災者の魂の救いを他の人間が支援できるだろうか?これは不可能と言わざるを得ない。一人の人間の魂を救うということは、その人が、自分の魂と天と地とのつながりを自ら見出して、自分で答えを出す他はない。自分の魂の世話は、自分にしかできないのだ。
 そう考えるならば、話は原発事故に留まらない。私たちは、人生において、さまざまな理不尽なできごとに直面して苦しみ、傷つく。そこをどう乗り越えるかは、自分の魂をどうお世話できるか、ということにかかっている。
 ただできるのは、魂の世話を、友人として、ともにやっていくことである。真の友人とはそういう存在のことである。

 この夏は、岡崎市で、お母さんたち手作りの保養プログラム「福島のみんな!あそびにおいでん!プロジェクトin愛知」が行われ、私も少しだけお手伝いした。福島のお母さんたちとつながることができるのは、お母さんたちしかいない。とてもよいプログラムだった。
 ただ、企画者として、あるいはボランティアとして参画した愛知のお母さんたちのふりかえりを聞いていて、福島のお母さんたちと思ったようにコミュニケーションがとれなかったという戸惑いの声を聞いた。
 支援する側と、される側。こう立場が分かれざるを得ないのが保養プログラムである。そうするとこれも一つの<システム>とならざるを得ないのではないだろうか。そのことによって、魂のレベルでのおつきあいが難しくなってしまうようである。


 私はある時から福島に行くときにサーベイメータを持って行くのをやめた。かわりにトロンボーンを持って行くようになった。最近では、原発事故を機会に知り合った福島の大切な友人たちのところに、ただ遊びに行って、楽しくおしゃべりし、演奏を聴いてもらったりしているだけである。これは、私にとっても、もちろん自分の魂の世話である。福島に「いのちの洗濯」に行っているのだ。逆に福島から愛知へ「いのちの洗濯」に来てもらえるとよいなと思う。
 原発事故があったからこそ、出会えた真の友人たち。そのようなおつきあいが全国で広がることが、原発事故を克服していくということなのではないかと思う。

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1 コメント

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そうですね、言葉では足りないですね。 (日野 貴文)
2012-11-07 18:59:09
先日はありがとうございました。
地域再生実践塾。
本当に今後の糧となりました。
岡山での講師、本当にお疲れ様でした。

交流会の時と、先生がお帰りになられるちょっと前に話をさせて頂きました。
話を終えた後、宝物を頂いたような気持ちとなりました。
ありがとうございました。

僕の祖父は広島で被爆しました。
福島の事は他人事のようで、実は僕の実感として、血肉として他人事ではありません。
そういった、自分自身へと繋がる悲しみも、とても言葉では足りません。
でも、その悲しみがいつか、自分の中で明日への糧になるように自分自身を生かして行こうと思っています。
悲しみが憎しみとなるのは必然なら、僕はその必然に抗うでしょう。
憎しみあう未来をうまない為に、自身を防波堤とするまでです。

等と書いてしまいましたが、とても、全ての言葉を使っても表現しきれない想いです。
持続可能な社会はきっと、これに類する多くの学び、気付きの上に成り立つのでしょうね。

寒くなってきましたね。
くれぐれも、ご自愛下さい。

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