祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

思いは実現する!

2013-04-26 21:44:08 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

思いは実現する!

    投稿日:2010年 8月13日(金)00時39分4秒

返信・引用

 

 

a-fen さん、いつも励ましの言葉有り難うございます。
最近、新しい方がいらっしゃって練習されています。本当に熱心で、真綿のように素直に吸収される。
動作は、もちろん始めたばかりで形にはなってはいないのですけれど、学んだ事を一つずつ着実に吸収していこうとされる姿勢を見ていると、こちらが勉強になったりします。
 「初心忘るべからず」とはよく言うけれど、知らず知らずのうちに忘れてしまって、自分はもうできるとか上達したとか思ってそこでもう達成したかのような錯覚を持ってしまう。
 「思い続ければ、そのようになっていく。丹田を回すとか、つま先の角度がどうとか、抱肩をどのようにするかとか、今はできないかもしれない。だけど、自分の思いや理想、上達の姿を描いてあきらめず練習していると必ず、その思い描いたものになってくる。それが上達だし、そこにつくとまた新しい遠い地平が見えてくる。自分には、遠い物に感じるかもしれない。しかしその道をゆっくりと地道に歩いていくしかない。いつまでたっても到達する事はない。完成などありえない。その道を歩いている過程こそががその人の人生だし、修行だし、上達なのだ」という王映海先生から教わった言葉をそのまま伝えながら、私は私自身に行っている言葉なのだなと思いました。

 

 


一筋

  投稿者:a-fen  投稿日:2010年 8月11日(水)22時09分4秒

返信・引用

 

 

xinyiさんは17年を通し武術を愛し、当時の熱い心を持ち、自分の足で何度も中国に行って王映海先生から習得してきて現在は気前良く又自分の脚を運んで武術の愛好家に伝承しているのはなかなか出来ないですよ、尊敬します。
「入門」の言葉は良く本屋さんで見られる言葉ですが、入門の意味は日本ではちょっと軽い学ぶ意味の気がします、ちょっと触れてすぐに辞める方は多いでしょう。実際に私は武術のことが分らないですが、中国の武術では入門の真義が厳しく問われると思います。xinyiさんは王先生たちと武術とご縁があるでしょう、こんなに一筋を守って真剣に愛することは羨ましいです。
一般の流行エアロ、社交ダンスなどとは違って自分の魂を高まるのため、時間を掛けながら武術でよく使われた言葉”丹田”を大きく強くを育ているのようでしょうね。(あまり分らないですが違うかもしれない)その丹田は自分自身しか知らないでしょうね?
xinyiさんと同じように助けられている方も居るだと思います。
違う意味で私も一人だ思います。
長年に一緒にされている方も師兄、師弟のような良いご縁だと思います。
是非、熱い心を皆さんにも振り分けて楽しんでください。

 

 


助けられる

    投稿日:2010年 8月10日(火)23時09分18秒

返信・引用

 

 

私は、武術に救われているなと思うことが折に触れてある。
自分自身が、仕事だとか人間関係で閉塞感というか、悩んでいたり、なかなか暗いところから抜け出せないことって、大なり小なり誰にだってあるのだろうけど、そんな状態の時は、自分一人だけそんなめにあっているような、錯覚に陥る。
 この会が始まって17年になる。下手なりに僭越ながらこの会の代表としてこれまでやってきた。幸いにも王映海、仲連、喜成老師を始めとする指導者の方々に手厚い指導を受けることができ、質の上でも向上させていただいた。
17年間ほとんど変わらないのは、少数精鋭といえばかっこいいのだが、人数は、多くなりもせず、少ない人数のままだ
武術の発展という面からすると、もっと裾野を広げないといけないなあとも思うこともよくあるが、一方では、こんなに熱心に武術に打ち打ち込んでくれるひとたちが何名書いてくれることに感謝しなければいけないなあと考えることもしばしばです。
 悩んでいるときも、忙しいときも、少々かぜ気味の時も、会の練習があるときには無理を毎回指導してきた。一人でも来る人がいれば無理をしてでも練習に出向いた。今考えると、結局自分のためになっていたんだと思う。人に指導するといういかにも人のためにやっているという名目だのに、結局、教えている本人が武術とみんなから元気をもらっていた。体がだるいときも練習が終わると、元気になっていたし、一人で悩んで閉塞していても、練習が終わると、たわいのない、ちっぽけなことのように思えてきた。武術は人を救う、世界の人を救うことだってできるのかもしれない。しかし私のような人間は、その人とは他人ではなく、自分自身だったのだと思う。

 

 

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