偏愛京都

2010年06月10日 23時36分16秒 | 日記
今日も暑い一日でした。
2回生になって2・3限から授業が始まる日が多くて楽だ!と思っていたのですが、
こうも暑くなると、まだ気温が少しでも低い1限からの方が良かったのかもしれない…と思っています(^^;


4限の「京都学基礎講読」では、我が4班が司会担当。
明治初期京都の政治構造について、当時の名望家(≒実業家)と関連させた論文が扱われました。
この時期の京都は東京奠都による衰退から近代化へと歩み始めたことで知られていますが、発表ではその過程をじっくりと例を挙げながら辿っていき、
琵琶湖疏水開発によって鴨東地域(主に岡崎周辺)に名望家たちが移ったことに伴って西陣が廃れる危機にあったことなど、今まで点として得ていた知識が、初めて線になって繋がったような気がしました。

それからの議論は、京都はそもそも首都であったのか、奠都後は一地方に成り下がったのかということに終始し、
遷都と奠都の違いについて(私は後者が好きです)先生の解説が入ったり、「京都は首都としてのアイデンティティを失い、一地方としてのアイデンティティ(=観光産業都市)を見出した」という班の意見についての疑問が上がるなど、個人的には京都人として背中をくすぐられるような内容へと発展していきました。

京都は「都名所図絵」にも見られるように、実は江戸時代のはるか昔から観光都市として売り出していたんですよね。
しかしそれは寺社だけの話であって、例えば西陣織のように人々の生活に根付いたものを「伝統工芸品」として(伝統は、残す必要性が生じた時に伝統と化す)残さなければならなくなった時期がこの明治初期だったのではないでしょうか。
当時の京都の人々からは「京都は日本の中心である」という強大な後ろ盾が無くなって、やれ近代化、やれ前衛都市と様々な外からの影響が流入してくる中で、
名望家たちは、元からある観光だけでなく廃れゆく京都の生活や産業を守ることに意義がある、それが自らのノブレスオブリッジであると考えた。
それが結果として、放っておけば無くなるような伝統産業を守りつつも近代化をバランス良く取り入れ、日々再生・更新していく現代京都を生み出すことに繋がったのだと授業を終えて思いました。

このように、京都は近代から現代へと至る模索・紆余曲折が他の都市よりも長いことが特徴であり、また魅力でもあります。
千年以上もの長きに亘って首都であった場所が奠都により存亡の危機に立たされ、そこから見事再生を遂げた日本で唯一の場所、そんな京都に生まれたことを僕は誇りに思いますし、心の底から愛してやみません。


写真は時代祭にて。
明治時代の混沌としていた京都も見てみたかったな…。

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