大山町所子集落

2018年05月08日 02時06分28秒 | 旅行記
一ヶ月も更新を空けてしまったのは、おそらく初めてではないでしょうか。
慌ただしい4月を乗り切って、いちおう元気に? 生きています。

GWはここぞとばかりに息抜きを、京都から山陰・山陽経由の一筆書き切符を使い、途中で九州に飛び出すという大きめの旅をしてきました。
その序盤、鳥取県の大山口駅近くにある「所子(ところご)」という集落が農村では珍しい伝統的建造物保存地区に指定されているということで訪れてきましたので、紹介します。




大山口駅。
米子にもほど近く、文字通り大山の玄関口でバス路線も乗り入れています。


駅から15分ほどのところにある所子集落。大山の北麓と日本海に挟まれた台地上にあります。
たまたまガイドの方がいらしたのでお話をうかがいました。かつての庄屋等の建築物が残されていること、周辺の田畑や水路(大山の湧水)などの地割が旧来のままである(少なくとも天保期からほぼ同一)ことから、国の伝統的建造物群保存地区として選定されたそうです。




その起こりは鎌倉時代までさかのぼれるようですが、その時期からあるもとの集落を「カミ」、以降、江戸期以降に形成された新しい集落を「シモ」と呼んでいるそう。ガイドさん曰く、幼少期はカミの子はカミの子、シモの子はシモの子だけで遊び、葬儀等も両者できちんと分けられていたそうです(差別意識とかそういうのではない)。
現在は人口減少もあってカミとシモを合わせた集落を8つの班に分け、町内維持活動をしているのだとか。




重要文化財の門脇家住宅。
集落内を縦横無尽に流れる水路は昔はもう少し広かったそうで、自動車を通すために縮小・暗渠化された痕跡が随所に窺えました。

もう一つ、私がここに惹かれた理由が、鎌倉時代、当地は下鴨社の社領だったという点。
これについてはどのような経緯でそうなったのか……というのは聞き取りでも分かりませんでした。荘園由来かな? と思っていますが、何故こんな離れた場所が選定されたのか、そして、社領時代の当地と都(下鴨社)との交流、人々の対「都」意識など、気になる点はたくさん。幾らでも掘り下げることはできそうです。


集落内には賀茂神社や糺神社(跡)があり、両者を結ぶ線上は「神の通り道」と呼ばれ(ガイドさん曰く、命名されたのはつい最近のことのようです)、しかし昔から建築物はいっさい建ててはいけないそう。現在も家々は線上を避けるように点在し、田畑のみが一直線に延びているのが印象的でした。


集落の北端からは日本海と風車を望むことができました。
前後の行程の関係から、滞在時間をあまりとることができなかったのが惜しまれます。次回は是非机上調査を積んでくまなく歩いてみたいです。