いややろノルマ 量なくせ!
1886年 井上馨・ノルマントン号事件 領事裁判権を問題視 熊野灘
[point]
1.条約改正で井上馨外相のときノルマントン号事件、青木周蔵外相のとき大津事件がおこり、交渉が頓挫。
[解説]
1.ノルマントン号事件(1886~87)は、横浜出航のイギリス貨客船ノルマントン号(3,000トン)が、1886年熊野灘(和歌山県)で座礁沈没した海難事件。イギリス人・ドイツ人の白人船員20数人は乗客を見殺しにして全員ボートで脱出し救助されたが、置き去りにされた日本人乗客25人およびインド人・中国人火夫10数人は全員水死した。
神戸駐在イギリス領事は領事裁判で船長以下を最初無罪とした。これに対し国内世論が沸騰したため、改めて横浜で再審されたが、船長が3ヶ月の禁固になったのみで、賠償もないという非道なものであった。この事件で世論は人種差別と不平等条約への怒りを爆発させた。
税権を回復しても、裁判権を奪われているままでは、麻薬密輸を初めとした経済犯を処罰できない、すなわち税権を回復できても意味がないことがはっきりした。このため法権回復が交渉の主眼となる。
2.大津事件(1891)は、琵琶湖でロシア皇太子(のちのニコライ2世←ロシア革命で処刑)が警備の巡査に斬りつけられ重傷を負った事件。皇太子はシベリア鉄道建設起工式に向かう途中に日本を訪問していたもの。
このとき大国ロシアが小国日本に対して報復に出るのではないかと、日本中がパニックに陥った。日本政府は皇室に対する罪で巡査の死刑を要求したが、大審院院長児島惟謙(こじまいけん))はニコライが外国人であるから皇室の扱いは出来ないとして無期懲役の判決を下した。政府の執拗な裁判に対する干渉を排したことで「司法権の独立」としてたたえられることになった。
3.フランス人画家ビゴー(1860~1927)は風刺雑誌「トバエ」でノルマントン号事件など条約改正問題を辛辣に風刺した。
〈2016慶大・商A方式
さて、明治政府は当初より不平等条約改正の交渉を目指していた。1873年に外務卿となった[ 55 ]は、樺太・干島交換条約の締結ののち、条約改正交渉を試みたが、イギリス・ドイツの同意が得られなかった。1879年に外務卿(その後外務大臣)となった[ 56 ]は欧化政策を打ち出し、日本の近代化ぶりを示そうと試みた。その後外務大臣を務めた[ 57 ]が改正案を提示するものの、外国人判事任用問題に際し反対運動が盛り上がり、右翼団体の構成員に襲撃され交渉を中断した。その後外務大臣となった[ 58 ]は、ロシアの皇太子が負傷するという大津事件により引責辞職した。
[ 59 ]が外務大臣になると、1894年にイギリスとの間に( c )が調印され、領事裁判権の撤廃に成功した。」
(答:c日英通商航海条約、55寺島宗典、56井上馨、57大隈重信、58青木周蔵、59陸奥宗光、※原問には選択肢が69あり)〉
〈2016立教大・済コミュ福観光
問5.この人物(井上馨)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.初代外務大臣として、外国人の内地雑居を認める代わりに領事裁判権を撤廃する条約改正交渉を進めた
b.第2回総選挙では、内務大臣として激しい選挙干渉を行った
c.ドイツ人顧問モッセの助言を受けて地方制度の改革を進めた
d.山口県萩で発生した前参議・前原一誠の反乱に加わるため、政界から下野した。
(答:a ※bは品川弥二郎〈二〉で第二回総選挙、「野次ろう」で選挙干渉)
〈2016立教大・現心社コミュ福
2.明治憲法が施行された後の1891年5月に、いわゆる大津事件が発生し、さらに10月には、濃尾大震災という未曾有の試練が政府をおそった。大津事件に対して、政府は4.対外関係への配慮から、様々な事案処理策を検討した。
B問4.これ(対外関係への配慮から、様々な事案処理策を検討した)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.外相が引責辞任し、条約改正交渉は一時中止された
b.政府は、担当裁判官を解任し、司法権の独立に介入した
c.大審院長児島惟謙は、犯人に日本の皇室に対する刑罰の適用を主張した
d.大審院に外国人判事が任用されることになった。
(答:a)〉
〈2013立大・全学部
条約改正に関する次の出来事(a.井上馨の外相辞任 b.大津事件 c.小村寿太郎外相時の日米通商航海条約締結 d.ノルマントン号事件 e.陸奥宗光外相時の日英通商航海条約締結)を年代順に並べよ」
(答:dabec。ノルマントン号事件後、井上外相が辞任だからd→a→bが判明し、e→cは基礎〉