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「巻五 内野の雪」(その4)─後深草天皇践祚

2018-01-09 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 9日(火)21時23分57秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p249以下)
西園寺家の栄華の場面が続いた後、摂家将軍・九条頼経が京に戻る話になります。

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 かくて又の年、東の大納言頼経の君、悩み給ふ由聞えて、御子の六つに成り給ふに譲りて都へ御かへりあれば、若君はその日やがて将軍の宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名乗り給ふべし。泰時朝臣も一昨年入道して、孫の時頼に世を譲りにしかば、この頃は天の下の御後見、この相模守時頼朝臣つかうまつる。いと心かしこくめでたき聞こえありて、つはものも靡きしたがひ、大方世もしづかにをさまりすましたり。
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後深草誕生の翌年なので寛元二年(1244)の出来事ですが、第四代将軍・九条頼経(1218-56)は確かに同年四月に将軍を息子の頼嗣(1239-56)に譲るものの、その後も「大殿」として鎌倉に留まります。
また、北条泰時(1183-1242)が「天の下の御後見」たる地位を孫の時頼(1227-63)に直接譲ったように述べていますが、実際には執権の地位は時頼の兄の経時(1224-46)が受け継ぎ、経時が寛元四年(1246)に二十三歳の若さで死去したため、弟の時頼が執権となった訳ですね。
この時期、鎌倉の政情は非常に不安定化し、「宮騒動」を経て、同年七月に頼経は京都に追放されることになります。
更に翌宝治元年(1247)六月には「宝治合戦」が起きて三浦一族が滅ぼされますが、『増鏡』はそのような幕府の混乱には一文字も費やさず、北条時頼は非常に賢く立派な人物との評判が高く、武士たちも靡き従い、世の中は静かでよく治まっています、と述べます。
このあたり、『増鏡』作者が参照していることが明らかな『五代帝王物語』を見ると、

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鎌倉に三浦若狭前司泰村、舎弟能登守光村謀叛の事ありて、宝治元年六月五日合戦あり。其間事委くかきつくしがたし。泰村以下三浦の者ども、故頼朝の大将の法花堂にたてこもりて、一類四百七十余人自害したりければ、鎌倉は別のことなく静まりぬ。もし泰村本意を遂たらば、都はいかがあらんずらむと申あひたりしかば、御祈ども有しに、誅せられにしかば聖運もいとど目出かりき。【中略】まことや将軍頼経卿は関東に何とやらん子細ありて、寛元四年七月に京へのぼりて、その子頼嗣将軍になりて、閑院造営の賞に上階して、三位中将と申。
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となっていて(『群書類従・第三輯』、p437)、『増鏡』作者は当時の鎌倉情勢を正確に認識しつつも、意図的にそれを一切記述しないという方針で執筆している訳ですね。

宮騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%A8%92%E5%8B%95
宝治合戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6

さて、この後、寛元四年(1246)に後深草天皇が四歳で践祚したことが簡単に記された後、「巻五 内野の雪」では非常に珍しい摂関家関係の記事になります。

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 かくて寛元も四年になりぬ。正月廿八日春宮に御位譲り申させ給ふ。この御門も四つにぞならせ給ふ。めでたき御ためしどもなれば、行末もおしはかられ給ふ。光明峰寺殿の御三郎君、実経の大臣、御年廿四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録し給へるためし、古くは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿<兼家>、その又御こども、中の関白殿・粟田殿・法成寺入道殿、これふたたびなり。近くは法性寺殿の御こども、六条殿<基実>、松殿<基房>、月輪殿<兼実>、こぞやがて今の峰殿の御祖父よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨かうぶり給へりしばかりにて七日にて失せ給へりしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所、流れ絶えず、久しき藤波にてたち栄え給へるこそ、たぐひなきやんごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政をば後には円明寺殿と聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。
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ま、それなりの分量ではありますが、内容的には単なる事実の羅列に過ぎず、誰でも書けそうな感じですね。
なお、増補本系の『増鏡』には「いとめでたし」と「御はらから三人まで」の間に「兄の福光園院殿もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし」との一文が入ります。
この点、井上氏は、

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福光園院は良実で、新帝の摂政に続き任ぜられたかったが、弟実経が東宮傅であり、傅が新帝践祚とともに摂関になる例が多いので、道家・実経は良実に強い圧力をかけて、まったく「しぶしぶ」の状態で良実は関白を辞したのである。
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と書かれていますが(p253)、当該記述は、少なくとも増補本系の場合、『増鏡』の作者を二条家関係者とする説にはかなり不利な材料なのではないかと思います。
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