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学問空間

「『増鏡』を読む会」、今月は4(金)・11(金)・18日(金)・25日(金)に行います。

資料:佐々木紀一氏「永暦の変と後白河院の動機」(その1)

2025-01-04 | 鈴木小太郎 channel 2025
佐々木紀一氏「永暦の変と後白河院の動機」(『米沢国語国文』48号、2019)

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(序)
一、現存史料による逮捕の経緯
二、『平治物語』諸本による事件の詳細
三、『帝王編年記』の平治記事と『平家物語』
四、『尊卑分脈』「経宗公伝」
五、源光康・光宗親子の誅死
六、三条殿焼討の被害
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p4以下
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あらゆる歴史は、これまで、結果の見地から、しかも結果における理性の想定に
基づいて、書かれてきた。──ニーチェ『「われら文献学者」をめぐる考察』


 平治の乱の終息後の二月二十日、二条天皇親政派の藤原経宗・惟方が夜中、清盛の兵に襲撃・捕縛され、流罪に処せられる。この「同廿日夜天下有騒動」は、事件そのものよりも、院の命に従った清盛の政治的選択の結果、

  コレヨリ清盛天下ノ権ヲホシキマゝニシテ、程ナク太政大臣ニアカリ

と、後の平家政権成立の契機として評価される。事件が院御所の桟敷打ち付けと云ふ、両人の嫌がらせに対する院の激情により、突発的に引き起こされたことは確かで、当時の自力救済の社会風潮と共に、院の特殊な性格に原因が求められてゐる。対して「後白河の院御いきどをりふかゝりかれば」とあるが、感情的暴発説ではなく、安田元久氏は乱以降、政治的局外者となつた院に、親政派を誅殺する権力はないものの、清盛を利用して両者の平治の乱与同の罪を問責する意図があったとする。従来と大きく異なる乱の理解を示した河内祥輔氏は、内裏における逮捕は院による二条天皇自身への威嚇の意図があるとし、共に、院の行動に政治的合目的性を認める。
 平治の乱後、後白河院政を停止しようとした有力貴族の失脚である本事件を、筆者は永暦の変と呼ぶが、その政治史的意義、また院の意図を測る為に、先づ逮捕そのものの考察が十分に必要であると考へる。但し同時代の記録が伝存せず、編纂史料が何点か残るが、年代記は簡潔すぎ、歴史物語『今鏡』は特に政治の機微、軍事については朧化する為、事件そのものが明確ではない。唯一、関係者(の子孫)の証言に基づく『愚管抄』が、精彩に富み、詳細であるが、十分ではなく、それとは別に『平治物語』を参照可能と見るものである。勿論、『平治』の成立事情は不明で、文学的脚色、誇張が施される箇所を指摘出来るから、史料としての価値は大いに留意する必要があるが、現存史料と対照させる事により、事件の性格について、幾らか明らかになる所が有ると考へる。


一、現存史料による逮捕の経緯

 早くに紹介されるが、

『百錬抄』(新訂増補国史大系)
  院仰清盛朝臣、搦召権大納言経宗、別当惟方卿於禁中(永暦元年二月二十日条)

や、『皇代暦』の、

  同二月廿日夜、於八条内裏、大納言経宗・別当惟方被搦畢、配流経宗阿波国、惟方長門国

は、逮捕のみが確認できる記事である。対して『今鏡』三「すべらぎの下」(ひなのわかれ)の、

【以下二字下げ】
かの少納言の御ゆかり、うら/\にながされける、みなめしかへして、よみなしづまりて、内の御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御はゝかた、また御めのとなどいひて、大納言経宗、別当惟方などいふひとふたり、よをなびかせしほどに、院の御ため御心にたがひて、あまりなることゞもやありけん、ふたりながら内にさぶらはれける夜、あさましくきこえしに、いかなる事かあらんずらんときこえけれど、法性寺のおほきをとゞの、せちに申やはらげ給て、をの/\ながされて、このごろはめしかへされて、大臣の大将までなり給へるとこそはきゝはべれ、さまであやまたずをはしけるにや

や、
『愚管抄』(文明本)では、

【以下二字下げ】
後白川院ヲバ、ソノ正月六日、八条堀川ノ顕長卿ガ家ニヲハシマサセケルニ、ソノ家ニハ桟敷ノ有ケルニテ、大路御覧ジテ下スナンド召寄ラレケレバ、経宗惟方ナドサタシテ堀川ノ桟敷ヲ板ニテ外ヨリムズ/\ト打ツケテケリ、カヤウノ事ドモニテ、大方此二人シテ、世ヲバ院ニシラセマイラセジ、内ノ御沙汰ニテアルベシト云ケルヲ聞召テ、院ハ清盛ヲメシテ、ワガ世ニアリナンハコノ惟方経宗ニアリ、是ヲ思フ程イマシメテマイラセヨトナク/\仰有ケレバ、ソノ御前ニハ法性寺殿モヲハシマシケルトカヤ、清盛又思フヤウドモゝ有ケン、忠景・為長ト云二人ノ郎等シテ、コノ二人ヲカラメトリテ、陣頭ニ御幸ナシテ御車ノ前ニ引スエテ、ヲメカセテマイラセタリケルナド、世ニハ沙汰シキ、ソノ有サマハマガ/\シケレバ、カキツクスベカラズ、人皆シレルナルベシ、サテヤガテ経宗ヲバ阿波国、惟方ヲバ長門国ヘ流シテケリ

と、逮捕に至る直接的原因と、院の前の厳しい糾問が記される。
 しかし以上の史料には明快でない逮捕の様相を指摘できる。『愚管抄』によれば、「ナク/\」院は清盛に拘束を命じ、両人は「面縛」されたとあるのだが、前掲『今鏡』傍線を見るに、法性寺殿忠通の懸命の執り成しがあつて流罪に収まつたとあるから、その時、それ以上の措置である、殺害の可能性があったと解すべきでらう。恥辱を与へた(河内著)、或は現役公卿の拷問に留まらない事になる訳だが、保元の乱で死刑が復活したとは言ひ条、高位の貴族が何ら朝儀を経ずに処刑される事は、通常あり得ない。
 また、両人の捕縛の際、乱闘があつたとする記録がある。南北朝時代成立の『帝王編年記』で、

【以下二字下げ】
二月廿日、上皇御幸内裏、於近辺召取権大納言経宗・参議惟方卿等之間、禁中有乱闘事、三月十一日、経宗・惟方等配流国々(新訂増補国史大系)

として、院自身内裏に乗り込み「乱闘」があつたとする。この乱闘と非合法的処刑が、実は『平治』と一致するのである。
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