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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)

2021-01-16 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月16日(土)13時25分21秒

一昨日の投稿で、岩波『日本史年表』に「尊氏,直義(47)を毒殺」と書いたのは永原慶二氏だろうと「断定」した私ですが、念のためと思って永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を見たところ、「尊氏、直義を毒殺」という小見出しで始まる二頁弱の記述の最後に、

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 尊氏はこの間、下野の宇都宮公綱などの武士たちを誘い、直義をじりじりと圧迫、武蔵で国人一揆を結んでいた群小の武士たちも尊氏方に加わった。窮地に追いこまれた直義は、観応三年=正平七年(一三五二)正月、尊氏に屈服した。直義の最後の抵抗は意外に弱かったが、やはり武家の棟梁たる征夷大将軍という立場が、直義とのちがいであった。尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った。
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とあって(p71以下)、単に毒殺と記すだけではなく、「直義を毒殺して葬り去った」という具合いに、ずいぶんドラマチックな、というかテレビの二時間ドラマ的な安っぽい文飾を加えて毒殺と「断定」していますね。
細かいことを言うと、尊氏が直義を伴って鎌倉に入ったのは正月六日(西源院本『太平記』)であり、直義が死んだのは二月二十六日ですから、「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」訳ではありません。
永原氏を編集委員長とする歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1995)にも、1352年「1 尊氏鎌倉に入り直義降伏. 2 後村上,賀名生を出発.尊氏,直義(47)を毒殺」とありますね。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/813ca39bbecae0e66bb100692c945ea5

更にもう一つ細かいことを言うと、「尊氏はこの間、下野の宇都宮公綱などの武士たちを誘い」も不正確で、ここは公綱ではなく、公綱の息子の氏綱でしょうね。
たまたま最近読んだ清水亮氏の「南北朝・室町期の「北関東」武士と京都」(江田郁夫・簗瀬大輔編『中世の北関東と京都』、高志書院、2020)によると、基本的に南朝側だった公綱も貞和五年(1349)段階では北朝方に属していたようですが(p110)、まあ、ちょっと肩身が狭い立場であったはずで、薩埵山合戦の時点で宇都宮一族を代表するのは「宇都宮伊予守」氏綱ですね。

宇都宮公綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1
宇都宮氏綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F%E7%B6%B1

さて、峰岸純夫氏は『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、2009)において、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介・新田一郎の諸氏の見解を短く正確に引用していますから、当然に『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』の記述も熟知されていたはずですが、何故に永原氏だけ名指しせず、岩波『日本史年表』という迂遠なルートを経由して、分かる人にだけは分かるという形で永原氏の見解を批判したのか。
その裏には、あるいは永原氏と峰岸氏の間に歴史学研究会の主導権をめぐる熾烈な暗闘があったりするのかもしれない、などと妄想すると、それこそ二時間ドラマ的な世界に入り込んでしまいそうですが。

峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/025910d8e89a27fb3fbe6f944dff93b0

ま、それはともかく、永原氏が「直義の最後の抵抗は意外に弱かったが、やはり武家の棟梁たる征夷大将軍という立場が、直義とのちがいであった」とされている部分、私としては「最後の抵抗」に関しては別に征夷大将軍は関係ないような感じがするので、同書で征夷大将軍に関係する記述を遡って確認してみたところ、やはり永原氏は征夷大将軍に相当にこだわっていますね。
まず、護良親王については、

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 問題は護良親王であった。天台座主尊雲法親王という立場から還俗して力戦、情勢の転換を導きだした点では、高氏とならぶ第一の勲功といわなければならず、本人も強く征夷大将軍をのぞんだ。しかし父後醍醐とは、これについてすでに大きく考えがちがっていた。「公家一統」の世となったからには、征夷大将軍はおくべきでないというのが後醍醐の政権構想であった。だからこそ、六波羅攻略後いちはやく幕府の後継者のようにふるまっていた高氏にも、鎮守府将軍という称号しか与えなかったのである。
 ところが、そうした高氏の動向に、血気さかんな護良(二六歳)は、はげしい対抗心を燃え上がらせ、征夷大将軍のポストを求めて、要求がいれられなければ還京しないという強い姿勢を示した。こうして早くも新しい権力中枢の亀裂が露呈されたのであるが、後醍醐は、危機回避の策として、やむなく護良を征夷大将軍に補任した。六月二三日のことである。
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ということで(p15)、殆ど『太平記』の丸写しですが、私は「血気さかんな護良(二六歳)」が「はげしい対抗心を燃え上がらせ」ていたのかについては懐疑的です。
また、「六月二三日のことである」から、永原氏が『太平記』の流布本に依拠していることが分かりますが、流布本は護良の還京が六月二十三日と記しているだけで、その日に後醍醐が「護良を征夷大将軍に補任した」とは書いていません。
永原氏の記述は流布本の内容をも少し超えていて、些か勇み足気味ですね。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

少し長くなったので、中先代の乱に際して尊氏が征夷大将軍を望んだかについては、次の投稿で検討します。
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