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資料:坂口太郎氏「Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?」

2025-04-16 | 鈴木小太郎 channel 2025
資料:坂口太郎氏「源義朝の「逆罪」と「王命」─ 平治の乱、二条天皇黒幕説の誤謬─」〔2024-12-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a7890c2d03f55dfdf51c8641d3fd1fc

「源義朝の「逆罪」と「王命」─ 平治の乱、二条天皇黒幕説の誤謬─」(『古代文化』75巻3号(通号634) 、2023年12月)
https://x.com/rokuhara12212/status/1746794805563408773

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はじめに
Ⅰ 頼朝と兼実の対面
Ⅱ 桃崎氏による二条天皇黒幕説の提起
Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?
Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
おわりに
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p86
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   Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?

 まず、桃崎氏の理解に疑問を抱くのは、頼朝から平治の乱の真相を打ち明けられた九条兼実が、『玉葉』に一片の感想すら記さないことである。仮に、頼朝の発言内容が「天皇の犯罪という大スキャンダルであり、それを暴けば朝廷の現体制を崩壊させることも可能だ」(10頁)とすると、突然このような物騒な秘事を打ち明けられた兼実の筆致も、何かしら驚愕をにじませるはずである。それが見えないのは何故か。
 また、頼朝の発言の流れを見ても、桃崎氏の理解には疑問が生ずる。頼朝は、最初に八幡大菩薩の下した百王守護の託宣を取り上げ、自らが朝廷の守護者たることを述べ、続いて政道を淳素に反さんとする志を兼実に披露している。それが、舌の根も乾かぬ内に、今度は朝廷を崩壊させる「切り札」というべき、「天皇の犯罪という大スキャンダル」(同上)の暴露をちらつかせるのである。桃崎氏は、後文で頼朝が「やんわりと口にした」(333頁)というが、これは明らかに脅迫以外の何物でもない。果たして、かかる不可解な想定が成り立つであろうか。
 問題の核心となる「義朝の逆罪、是れ王命を恐るに依てなり」の一文を正しく解釈するには、「逆罪」の意味を的確に把握することが鍵となる。まずは桃崎氏の見解を聞こう。氏は、次のように述べる。

【以下二字下げ】
「逆罪」は帝王に対する反逆行為なので、帝王の命令に逆らえずに「逆罪」を犯す、というのは矛盾に見える。しかし、院政期には帝王が二人いた。天皇と治天の君(院政を敷く院)である。これを念頭に置けば、矛盾は何もない。義朝は、一方の帝王(天皇か治天の君)に命じられて逆らえず、もう一方の帝王への反逆行為に手を染めた。そう解釈するしかない。(167~168頁)

 確かに、平治の乱で挙兵した義朝は、結果的に謀叛人となったのであるから、彼の犯した「逆罪」なるものを、日蓮が「浄蓮房御書」において、

【以下二字下げ】
義朝なんど申、故右大将家〔源頼朝〕の慈父也。子を敬まいらせば、父をこそ敬まいらせ候べきに、いかなる人々も義朝・為朝なんど申ぞ。此則、王法の重く、逆臣の罪のむくゐ也。

と述べたような、「逆臣の罪」に引きつけるのは自然である(下線は筆者)。桃崎氏に先だって、川合康氏が「逆罪」を「反逆の罪」と解したのは、同様の判断に立つものであろう。ところが、「逆罪」の下にある「王命」は、「帝王の命令」と解釈する以外ないし、「恐る」も命令を拝承する意味としか考えられない(前章参照)。そうなると、問題の一文は、桃崎氏が当初矛盾と認めたように、「帝王の命令に逆らえずに「逆臣の罪」を犯す」という奇妙な解釈を取らざるをえない。
 この明らかな矛盾について、桃崎氏は、院政期の帝王には天皇と院(治天の君)の二人がいるとして一応の解決を与え、幾重もの入り組んだ推理を行なった末、二条天皇の命を受けた義朝が、後白河院への反逆行為、すなわち平治の乱での三条殿襲撃を決行したと主張するに至った(174頁)。
 しかし、このような考察は本当に正しいのであろうか。ここで筆者は、卓越した古代史家であった青木和夫氏の箴言を想起する。

【以下二字下げ】
関係史料を精読し、論文を書きはじめた当初の理解は深いのである。後に読返して自分なりの論旨を通そうとして当初の理解(直感といってもよい)を改めると、却って過ちを犯す。

 すなわち、自分の史料解釈に矛盾を感じたならば、無理に整合性を付けようとするのではなく、むしろ当初抱いた違和感に即して「自分なりの論旨」を再考するのが、史家のあるべき姿勢なのである。よって、至極基本的な作業に立ち戻ろう。信頼のおける辞典類について「逆罪」を調べるとどうか。

【以下二字下げ】
ぎゃくざい[逆罪] 名 悪逆非道の大罪。仏教では、無間地獄(むけんぢごく)に落ちる罪として、三逆罪・五逆罪・七逆罪の形で具体的に規定されている。一般には、父母を殺す罪、主君に背き謀叛(むほん)を起す罪などをさすことが多い。「いま重衡が逆罪をおかす事、まつたく愚意の発起にはあらず」〔平家・二・重衡被斬〕「敵は既に近付きたり。只急ぎ我が(=父ノ)頸を切つて孝養せよ。全く逆罪に成るまじ。急げ/\と云ひけれ共」(源平盛衰記・二〇)〕
(中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典』第2巻)
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ぎゃくざい[逆罪] ①父母を殺すなどの五逆罪・七逆罪などの罪。*保元—中・為義最後の事「願は上梵天帝釈、下堅牢地神に至給迄も、義朝逆罪を助させ給へ」②転じて、江戸時代、主殺し、親殺しなどの罪の総称。*伽羅先代萩・九「貝田勘解由が逆罪の義は、先達て訴へ奉る通り、当鶴千代に限らず」(石田瑞麿著『例文 仏教語大辞典』)

 古語辞典の前者では、「一般には、父母を殺す罪、主君に背き謀叛(むほん)を起す罪などをさすことが多い」とする。これだけを見ると、義朝の「逆罪」を平治の乱と結びつけるのも理由のないことではないが、同辞典で最初に仏教語の三逆罪・五逆罪・七逆罪を示すことを見逃すべきではない。
 そして、仏教語の専門辞典である後者を見ると、最初に「父母を殺すなどの五逆罪・七逆罪などの罪」を挙げ、用例に『保元物語』の一文を示している。おや、ここに「義朝逆罪」と見えるではないか(下線は筆者)。奇しくも問題を解くヒントが現れたようである。次に、その原文を引こう。

【以下二字下げ】
入道〔源為義〕、大におどろき、「扨は口惜事ござんなれ。義朝はだしぬきけるよな。あはれ、八郎〔源為朝〕が能いひつる物を。かく有べしと知たらば、六人の子供前後にたて、矢種のあらん限射尽て、討死して失たらば、名を後代にあげてまし。さては、犬死せんずるにこそ。今度の合戦に院〔崇徳院〕方かたせ給ひたらば、いかなる軍功・勧賞にも申替、また命にかへても、などか義朝一人を助ざるべき。あはれ、親の子を思ふやうに、子は親をおもはざりけるよ。『諸仏念衆生、衆生不念仏。父母常念子、子不念父母』と仏の説給へるは、少もたがはぬ物かな。但かくはあれ共、我子のわろかれとはおもはぬ也。願は、上梵天帝釈、下堅牢地神に至給迄も、義朝逆罪を助させ給へ」との給もはてず、涙に咽給ひけり。
(『保元物語 金刀比羅宮本』中「為義最後の事」)

 保元元年(1156)7月30日、朝廷は源義朝に命じ、保元の乱で崇徳院に加担した父源為義を斬らせた(『兵範記』)。『百錬抄』同年7月29日条には、「源為義已下、被行斬罪。嵯峨天皇以降、所不行之刑也。信西之謀也」とあり(下線は筆者)、後白河天皇帷幄の臣たる信西の意見に基づく処断であったようである。『保元物語 金刀比羅宮本』は、この事実にもとづき、我が子に斬られる運命を嘆きつつも、「逆罪」を犯す義朝の救済を仏神に祈る、老父為義の悲哀を描くのである。
 これに鑑みれば、頼朝が語った「義朝の逆罪、是れ王命を恐るに依てなり」とは、父義朝が後白河天皇の勅命を受けて祖父為義を斬った、保元元年の一件を指すことは疑いない。つまり義朝の「逆罪」は、平治の乱における義朝の挙兵(三条殿襲撃)と何ら関係がないのであり、桃崎氏の失考は明らかである。これを突破口として二条天皇を乱の黒幕と断じ、「完全犯罪」などとあげつらっても、まったく無意味であろう。むしろ二条は、そそっかしい探偵の誤解で冤罪に陥れられた被害者というべきであり、頼朝も、とんだ見損ないを被ったわけである。
 このように、頼朝の発言を以て、「平治の乱の真相究明を可能にする決定的な史料」(166頁)とは到底みなせず、帯にうたう「860年の封印」を射破るかに見えた、桃崎氏の一箭はあえなく折れた。否、最初からそのような「封印」など存在しなかったのである。
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