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学問空間

「『増鏡』を読む会」、今月は4(金)・11(金)・18日(金)・25日(金)に行います。

資料:坂口太郎氏「Ⅰ 頼朝と兼実の対面」

2025-04-17 | 鈴木小太郎 channel 2025
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はじめに
Ⅰ 頼朝と兼実の対面
Ⅱ 桃崎氏による二条天皇黒幕説の提起
Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?
Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
おわりに
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p84以下
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   Ⅰ 頼朝と兼実の対面

 『平治の乱の謎を解く』のプロローグでは、頼朝が暴いたという「完全犯罪」なるものが取り上げられる。ここで、桃崎氏は、「源頼朝の告白─天皇の完全犯罪」という小見出しを設け、九条兼実の日記である『玉葉』建久元年(1190)11月9日条の一節を示す。そして、ここに平治の乱の謎を解く突破口を得たというのである。
 桃崎氏による訓読・解釈と、それにもとづく問題提起は後ほど示すとして、先にその原文を直前の箇所も含めて引こう(下線は筆者が付したもので、桃崎氏の重視する箇所)。

【以下二字下げ】
謁頼朝卿、所示之事等。①依八幡御託宣、一向奉帰君。可守百王云々。是指帝王也。仍当今〔後鳥羽天皇〕御事、無双可奉仰之。然而、当時法皇〔後白河〕、執天下政給。仍先奉帰法皇也。天子如春宮也。法皇御万歳之後、又可奉帰主上。当時全非疎略云々。②又下官〔九条兼実〕辺事、外相雖表疎遠之由、其実全無疎簡。深有存旨。依恐射山〔後白河〕之聞、故示疎略之趣也云々。
③又天下遂可直立。当今幼年御。尊下〔九条兼実〕又余算猶遥。頼朝又有運、政何不反淳素哉。当時偏奉任法皇之間、万事不可叶云々。[而]所示之旨、太甚深也。
又云、義朝逆罪、是依恐王命也。依逆雖亡其身、彼忠又不空。仍頼朝已為朝大将軍也云々

 これは、上洛した頼朝が、閑院内裏の清涼殿鬼間において、摂政九条兼実と対面したさい、自己の政見を披露したものである。管見を以て、頼朝による発言の骨子を示すと、以下の4点となる(番号は、引用文に筆者が付したものと対応)。

【以下二字下げ】
①頼朝は、八幡大菩薩の下した百王守護の託宣に従って、後鳥羽天皇を仰ぐが、現在は後白河院が院政を布いているので、さしあたって後白河を尊重する。後白河の亡き後は、後鳥羽に帰伏すること。
②頼朝は、後白河院への聞こえを恐れて兼実に疎遠な態度をとるものの、実は他意はないこと。
③頼朝は、将来における天下復旧を期待し、政道を淳素に反さんとする志を抱いていること。
④頼朝の亡父義朝の「逆罪」は、「王命」をかしこんだためであり、「逆」によって義朝は滅亡したが、朝廷への忠は空しくはならなかった。それゆえに、子の頼朝は「朝の大将軍」に他ならないこと。

 つとに三浦周行氏は、この頼朝の発言を取り上げ、「簡単にして而かも深長なる意味を婉曲に叙述せるところ、其面目の紙上に躍如たるを覚ゆると共に、彼れが政見の一班を窺ふべきものあり」という高い評価を与えた。以来、今日に至るまで、鎌倉初期の政治史を扱った論著には、上の一節を取り上げるものが少なくない。とくに、頼朝が④で称した「朝の大将軍」については、上横手雅敬氏による、「頼朝の存在に対する見事な自己規定であり、日本国総追捕使・総地頭の地位の獲得、それに関連する頼朝の恭順とも整合しているのである」という剴切な指摘がなされて以後、彼の国家的位置を論ずるさいに、多くの研究者が言及するところである。
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