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『増鏡』に描かれた正中の変(その1)

2018-03-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月11日(日)22時24分8秒

>筆綾丸さん
ご指摘の点、確かに河内説も、それに「首肯」してしまう呉座氏の見解もすっきりしないですね。
参考までに『増鏡』に描かれた正中の変の様子を見ると、発端は、

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 そのころ長月ばかり、まだしののめの程に、世の中いみじく騒ぎののしる。何事にか、と聞けば、美濃の国の兵〔つはもの〕にて、土岐の十郎とかや、また多治見の蔵人などいふ者ども、忍びて上りて、四条わたりに、たち宿りたる事ありて、人に隠れてをりけるを、はやうまた告げ知らする者ありければ、にはかにその所へ六波羅より押し寄せて、からめとるなりけり。あらはれぬとや思ひけん、かの者どもはやがて腹きりつ。また別当資朝、蔵人の内記俊基、同じやうに武家へ捕られて厳しくたづねとひ、まもり騒ぐ。
 事の起りは、御門世を乱り給はんとて、かの武士〔もののふ〕どもを召したるなり、とぞいひあつかふめる。さてその宣旨なしたる人々とて、この二人をも東〔あづま〕へ下していましむべし、とぞ聞ゆる。いかさまなることの出で来べきにか、といと恐ろしくむつかし。
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ということで(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p134以下)、ここまでは単なる事実の記録ですね。
ついで、多少気になる記述があります。

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 「故院おはしましし程は、世ものどかに、めでたかりしを、いつしかかやうのことも出で来ぬるよ」と人の口安からざるべし。正応にも、浅原といひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東よりひき違へし御恨みとこそは聞えしかば、今もその御いきどほりの名残なるべし。
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「故(後宇多)院が御在世のころは世の中もゆったりして結構であったのに、お亡くなりになるとさっそくこんな事件も起こって来ることよ」と人の口は穏やかではないようだ。正応の頃にも浅原為頼の騒ぎが起きたのは、後嵯峨院の御遺言と異なる扱いを幕府がした御遺恨と申すことであったから、今度もその御憤懣の余波であろう。

ということで、この書き方だと「御恨み」の主体は亀山院で、『増鏡』作者は亀山院が実際に浅原為頼を使嗾したと考えているようですね。
ただ、それを前提としても、浅原事件は正応三年(1290)の出来事ですから既に二十四年も前の話で「今もその御いきどほりの名残なるべし」とはどういうことなのか。
ま、この点の検討は後の課題として先に進みます。

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 過ぎにしころ、資朝も山伏のまねして、柿の衣にあやゐ笠といふもの着て、東の方へ忍びて下れりしは、少しは怪しかりし事なり。はやうかかることどもにつけて、あなたざまにも、宣旨を受くる者のありけるなめり。俊基も紀伊国の湯浴〔ゆあみ〕に下るなどいひなして、ゐ中歩きしげかりしも、今ぞみな人思ひあはせける。
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ということで、資朝にも俊基にも怪しい行動はあった訳ですね。
「あなたざまにも、宣旨を受くる者のありけるなめり」(関東でも宣旨を受ける者がいたようだ)とあるので、宣旨と称するものを受けたのではなく、実際に後醍醐の宣旨が存在したかのような書き方です。

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 さるままにはいひ知らず聞ゆることどもあれば、まだきに、いと口惜しう思〔おぼ〕されて、この事をまづおだしくやめむと思せば、かの正応にありしやうなる誓ひの御消息を遣す。宣房の中納言御使ひにて東に下る。大方、古き御世より仕へ来て、年もたけたる上、このころは、天〔あめ〕の下にいさぎよくむべむべしき人に思はれたる頃なれば、この事、さらに御門のしろしめさぬよしなど、けざやかにいひなすに、あらきえびすどもの心にも、いとかたじけなきこととなごみて、無為〔ぶい〕なるべく奏しけり。この御使ひの賞にや、宣房、大納言になされぬ。いといみじき幸ひなり。親は三位ばかりにて入道してき。子どもなどさへいときよげにて、あまたあめり。
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そうなってみると、いいようもない恐ろしい噂なども伝わってくるので、天皇は早期の段階で(事が露顕して)大変残念に思われて、このことをひとまずは穏便に済ませようと思われ、正応の浅原事件の際に亀山院がなさったような、事件に関知しないという御誓書を遣わした。そして宣房の中納言が御使者として関東に下った。だいたい、この人は昔の御代から仕えてきて、年もとっている上、このころは天下に高潔で篤実な人として信頼されていた頃なので、今回の事件は少しも天皇の関係されないことなどをはっきりと弁明すると、荒々しい東夷どもの心も、まことにもったいないことと和んで、穏やかにすませるよう奏上があった。この御使いの賞であろうか、宣房は大納言に任ぜられた。まったく大変な幸いである。父は三位ほどで出家してしまった人である。宣房の子どもも大変立派で、たくさんいるようだ。

ということで、「まだきに、いと口惜しう思されて」を「早期の段階で(事が露顕して)大変残念に思われて」としたのは井上訳に従ったのですが、これだと文意が通じやすいものの、後醍醐自身が実際に討幕の陰謀に関与していたことを前提とする訳のようにも思えます。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『徒然草』における日野資朝像 2018/03/11(日) 19:38:17
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 したがって、持明院統、あるいは大覚寺統の邦良派が後醍醐を皇位から引きずり下ろすために「後醍醐倒幕計画」の噂を流した可能性が想定される。特に持明院統が怪しい。後醍醐倒幕計画が“発覚”したのは、後醍醐の父である後宇多法皇が崩御してわずか三ヶ月後である。トップを失った大覚寺統の混乱に乗じて持明院統が仕掛けたのが正中の変だったのではないだろうか。
 ではなぜ、後醍醐側近の日野資朝は流罪に処されたのだろうか。河内氏は、後醍醐倒幕説を完全に否定しまうと、今度は後醍醐を陥れた人物を探さなくてはならなくなり、朝廷が大混乱に陥るからではないか、と推測している。首肯すべき意見だろう。(『陰謀の日本中世史』136頁~)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D
日野資朝は無実なのに罪を着せられてスケープゴートにされた、ということになりますが、『徒然草』の第152~154段からは、資朝はそういうのを潔しとしない性格のように見え、違和感を覚えました。『徒然草』の資朝像がどれほど正しいのか、よくわかりませんが。
「特に持明院統が怪しい」なら、返す刀で持明院統を叩けば済むことで、その程度のことで「朝廷が大混乱に陥る」とも思われず、どこが「首肯すべき意見」なのか、よくわからない。また、スケープゴートの流刑地がなぜ佐渡であったのか。鎌倉時代における佐渡の法的地位と云えば、変な言い方になりますが、そのあたりの事情もよくわからない。
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