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「『増鏡』を読む会」、今月は4(金)・11(金)・18日(金)・25日(金)に行います。

0288 桃崎説を超えて。(その49)─坂口太郎氏の書評に即して源義朝の立場を再考する。(その3)

2025-04-19 | 鈴木小太郎 channel 2025
第288回配信です。


一、前回配信の補足

0287 桃崎説を超えて。(その48)─坂口太郎氏の書評に即して源義朝の立場を再考する。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9beddd587066413b54729b945dda0b0e

p86
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 まず、桃崎氏の理解に疑問を抱くのは、頼朝から平治の乱の真相を打ち明けられた九条兼実が、『玉葉』に一片の感想すら記さないことである。仮に、頼朝の発言内容が「天皇の犯罪という大スキャンダルであり、それを暴けば朝廷の現体制を崩壊させることも可能だ」(10頁)とすると、突然このような物騒な秘事を打ち明けられた兼実の筆致も、何かしら驚愕をにじませるはずである。それが見えないのは何故か。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7441a29dafede740bcd85cf203e42465

保元四年(1159)十二月九日の三条殿襲撃の時点では正四位下、左近衛権中将(十一歳)。
永暦元年(1160)二月八日 従三位(十二歳)。  ※二十日に経宗・惟方逮捕。微妙な時期。
同年      八月十一日 権中納言。
永暦二年(1161)九月十三日 権大納言(十三歳)。※二条により後白河が「排除」された頃の微妙な時期。
長寛二年(1164)二月十九日 服解(父・忠通没)。
        閏十月二十三日 内大臣(十六歳)。
永万元年(1165)七月二十八日 二条天皇没。
仁安元年(1166)七月二十六日 藤原基実没(異母兄、六条天皇摂政)。
同年      十月十日 憲仁親王(高倉)立太子に伴い、東宮傅。(十八歳) 
同年      十一月十一日 右大臣(同日、藤原経宗左大臣、平清盛内大臣)
仁安三年(1168)二月十九日 高倉天皇践祚、東宮傅を止む。(二十歳)

兼実は二条天皇とは直接の面識があり、二条・後白河の微妙な関係を熟知。
平治の乱の「真相」が何であれ、兼実はそれを知っていた。
→「驚愕」しないのは当たり前。

p87
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 保元元年(1156)7月30日、朝廷は源義朝に命じ、保元の乱で崇徳院に加担した父源為義を斬らせた(『兵範記』)。『百錬抄』同年7月29日条には、「源為義已下、被行斬罪。嵯峨天皇以降、所不行之刑也。信西之謀也」とあり(下線は筆者)、後白河天皇帷幄の臣たる信西の意見に基づく処断であったようである。『保元物語 金刀比羅宮本』は、この事実にもとづき、我が子に斬られる運命を嘆きつつも、「逆罪」を犯す義朝の救済を仏神に祈る、老父為義の悲哀を描くのである。
 これに鑑みれば、頼朝が語った「義朝の逆罪、是れ王命を恐るに依てなり」とは、父義朝が後白河天皇の勅命を受けて祖父為義を斬った、保元元年の一件を指すことは疑いない。つまり義朝の「逆罪」は、平治の乱における義朝の挙兵(三条殿襲撃)と何ら関係がないのであり、桃崎氏の失考は明らかである。
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『保元物語』の成立時期は、古本系であっても承久の乱の後とするのが現在の通説。
金刀比羅宮本は更に相当遅れる。
建久元年(1190)の源頼朝・九条兼実間の会話に出て来た「逆罪」の解釈として、『保元物語』金刀比羅宮本を根拠に「保元元年の一件を指すことは疑いない」と断定するのはあまりに乱暴。


二、「依逆雖亡其身」の解釈

資料:坂口太郎氏「Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝」〔2025-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23749dbf601187c3fb80c0b057f7ea10
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