第285回配信です。
一、前回配信の補足
資料:樋口健太郎氏「叡子と師子の死」〔2025-04-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6749e609891d67175a792f94bc61498
資料:樋口健太郎氏「叡子と師子の死」〔2025-04-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6749e609891d67175a792f94bc61498
鹿子木荘関係の記述を【中略】としていたが、追加した。
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なお、叡子の死んだ住居は仁和寺に移築され、そこに彼女の遺骨が安置されて久安六年三月二十三日、勝功徳院〔しょうくどくいん〕として供養された。勝功徳院の建立に当たり、寄進・立荘された荘園の一つと見られるものに肥後国鹿子木庄〔かのこぎのしょう〕(熊本県熊本市)がある。この荘園については「鹿子木庄事書」という史料(東寺百合文書)により寄進地系荘園の典型例とされ、高等学校の日本史の教科書にも必ず記載されている。そこに見える領家藤原実政の末流願西が領家得分を寄進したという「高陽院内親王」こそ叡子である。鹿子木庄はのちに仁和寺領となるのだが、当初は叡子のための荘園として立荘されたのである。
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二、藤原多子から見た天皇家と摂関家
資料:樋口健太郎氏「養女多子の入内決定」〔2025-04-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/359d100658c90e86ad851b44ade8c652
資料:樋口健太郎氏「入内の経営」〔2025-04-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf7fc3e5fc4ee058afc58c3a266ae1bc
資料:樋口健太郎氏「叡子と師子の死」〔2025-04-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6749e609891d67175a792f94bc61498
資料:樋口健太郎氏「藤氏長者の交代劇」(その1)(その2)〔2025-03-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3761602c9a7cb9775261977300ee9628
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a0250db1e1f013c5b3f2b33b6d988e6
資料:樋口健太郎氏「近衛天皇─政争に翻弄された院の跡継ぎ」(その1)(その2)〔2025-03-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7280555c5b94a66fe8c2d6f6bd4d6a45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03433d88e249e9b9005119e8bfa0ae8f
保延五年(1139)
五月十八日 従三位藤原得子、体仁親王を出産。
八月十七日 体仁親王立太子にともない、頼長、任皇太子傅。
保延六年(1140)
徳大寺公能女(多子。幸子の姪)誕生。
永治元年(1141):多子二歳
十二月七日 近衛天皇践祚にともない、頼長、皇太子傅を辞任。
康治元年(1142):多子三歳
三月二十二日 頼長養女多子、真魚始。
十月二十六日 大嘗会御禊で、多子が女御代をつとめる。
十一月十八日 頼長、大嘗会節会の内弁をつとめる。
久安四年(1148):多子九歳
六月二十八日 頼長、多子の明年正月入内を鳥羽院に奏聞、許される。
七月二日 頼長、多子入内祈願のため、稲荷社に参詣。
七月三日 頼長、密かに多子入内雑事をおこなう。
七月十一日 頼長、多子入内祈願のため、稲荷社に参詣し、その後南都に下り、春日社・若宮社にも参詣。
七月十七日 頼長、妻を「幸子」と名付ける。また、忠実より荘園18か所を譲られる。
七月二十日 幸子、叙従五位上。
八月五日 幸子、叙従三位。
八月八日 頼長、養女を「多子」と名付ける。
十月十日 頼長、多子入内祈願のため、石清水八幡宮に参詣。
十一月二十六日 頼長、入内雑事定を行う。
十二月八日 叡子内親王没(近衛同母姉、14)。
十二月十四日 源師子没(79)。
十二月十八日 鳥羽院、近衛天皇の元服延期を決定。多子入内も延期に。
久安五年(1149):多子十歳
六月二十二日 幸子・多子、石清水八幡宮・稲荷社に参詣。
七月二十三日 頼長、石山寺に参詣し、入内の事を祈願。
七月二十八日 頼長任左大臣、叙従一位。任大臣節会あり。
八月十九日 鳥羽院、頼長に来年天皇元服決定により、入内経営を進めるよう命じる。
十月二十五日 頼長、入内諸国所課を催す。
久安六年(1150):多子十一歳
一月四日 近衛天皇元服。頼長、理髪役をつとめる。
一月十日 多子、女御となり入内。
三月十四日 多子立后、皇后となる。
四月二十一日 忠通養女為子入内。
四月二十六日 頼長、入内・立后慶賀を申すため、稲荷社に参詣。
四月二十八日 呈子(為子)に女御宣旨。
六月二十二日 呈子立后、中宮となる。
九月二十六日 忠実、宇治より上洛して東三条殿へ入り、頼長もこれに従う。
忠実、忠通を義絶して藤氏長者職を奪い、頼長に授ける。
十月十二日 忠実、忠通から家領荘園を没収し、鳥羽院に寄進。
十二月九日 忠通、摂政停止、任関白。
十二月二十四日 皇后多子、季御読経をおこなう。
仁平元年(1151):多子十二歳
一月一日 近衛天皇、鳥羽院に頼長を忌避する旨を通告。
一月三日 忠実、忠通に譲った師実・師通自筆日記を忠通から取り返す。
一月六日 正月叙位に際し、鳥羽院は頼長を執筆と定めたが、天皇は拒否。結局、源雅定となる。
一月七日 頼長が内弁を奉仕する白馬節会に近衛天皇は出席を拒否。
一月十日 鳥羽院の命により頼長に内覧宣旨。
六月六日 四条皇居焼失。近衛天皇・中宮呈子は八条殿に移るが、皇后多子は頼長の大炊御門高倉第へ。
十月十八日 皇居小六条殿焼失。近衛天皇は六条烏丸殿を経て忠通の近衛殿へ入り、里内裏とする。
仁平二年(1152):多子十三歳
一月一日 頼長、小朝拝に参入するも近衛天皇は現れず。
一月十日 大炊御門高倉の皇后多子御所に火災。
十月一日 方違行幸に際し、鳳輦から降りる時に近衛天皇は頼長が裾を取るのを拒否。
十月 呈子懐妊。
仁平三年(1153):多子十四歳
三月 呈子、臨月になっても出産せず。(想像妊娠)
九月 近衛天皇、眼病。
久寿元年(1154):多子十五歳
一月 近衛天皇病状悪化のため、諸行事に支障。
十一月十六日 大炊御門烏丸の皇后多子邸焼失。
久寿二年(1155):多子十六歳
六月一日 頼長妻幸子没(44)。
七月二十三日 近衛天皇没(17)。
七月二十四日 後白河天皇践祚。
八月十五日 中宮呈子出家。
八月 近衛天皇呪詛疑惑により、鳥羽院と忠実・頼長の関係悪化。
十月二十日 藤原公能娘忻子(多子同母姉)入内。→多子、皇太后に。
十二月十六日 忠通同母姉・高陽院泰子没。
保元元年(1156):多子十七歳
七月二日 鳥羽院没(54)。
七月十日 頼長、崇徳上皇とともに白河北殿に挙兵。
七月十一日 平清盛・源義朝ら白河北殿を攻撃、頼長敗走。
同日 忠通、宣旨により藤氏長者に再任。
七月十四日 頼長没(37)。
七月二十三日 崇徳上皇、讃岐に配流。
八月三日 兼長は出雲、師長は土佐、隆長は伊豆に配流。
保元二年(1157):多子十八歳
九月三日 徳大寺実能(多子祖父)没(62)
保元三年(1158):多子十九歳
正月 兼長(21)、配所で没。
二月三日 統子内親王、皇后(後白河准母)→多子、太皇太后に。
八月十一日 後白河天皇、二条天皇に譲位。
平治元年(1159):多子二十歳
十二月九日 藤原信頼等、後白河院御所三条殿襲撃。
十二月二十六日 平清盛が源義朝を破る。
永暦元年(1160):多子二十一歳
一月二十六日 太皇太后多子、二条天皇に入内。
0258 桃崎説を超えて。(その23)─「二代后」についての河内祥輔氏の解釈〔2025-02-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50bf14efda18d12f2a7095bf4d89c1e1
藤原多子(1140‐1201)







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