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学問空間

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武笠三(むかさ・さん)

2014-05-14 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月14日(水)09時04分22秒

有朋堂文庫版「宇津保物語」の校訂者は「たけ・りゅうぞう」かと思ったら、「むかさ・さん」だそうですね。
「発祥の地コレクション」というブログによれば、この人は文部省唱歌「案山子」の作詞者で、さいたま市の「見沼氷川公園」にある詩碑には、

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 明治四年 当地にある氷川女体神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として 三室村(現浦和市宮本)に生れた。東京帝国大学卒業後 旧制四高, 埼玉県第一中学(現浦和高) 旧制七高で教鞭をとる。明治四十一年文部省によばれ, 十七年間にわたり国定教科書の編さんにたずさわった。「案山子」は第二学年用として作詞された。昭和四年没。
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と記されているそうです。
旧制高校も七番目くらいになると、それどこだっけ、という感じになりますが、旧制七高は鹿児島でしたね。


それにしても丁寧に「さん」付けで読んだら呼び捨てになる訳ですから、ずいぶん紛らわしい、ハタ迷惑な名前ですね。


唱歌「案山子」発祥の地

>筆綾丸さん
最高裁調査官の期間が僅か1年というのは奇妙な感じがしたのですが、なるほど、そういう事情でしたか。
歴史学者で言えば石母田正氏や永原慶二氏クラスの知性が芋のようにゴロゴロ転がっている世界ですから、競争の重圧に耐えられない人も多いのでしょうね。
私も仕事で知り合った弁護士さんにアメリカ留学後、最高裁調査官・高等裁判所判事を経て40台の若さで退官した方がいたのですが、その人は書類を読むスピードが半端ではありませんでした。
私が訴訟の基礎資料を何日もかけて作成して送ったら、即日、こんなものではとても裁判所に出せません、と言わんばかりに徹底的に添削されて送り返されたことがありますが、直ったものは殆ど芸術品でしたね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

枕二種 2014/05/13(火) 23:30:54
小太郎さん
瀬木氏は、最高裁判所調査官時代(40歳)の時、鬱病で入院したそうです。
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入院していた病院で私が悟ったのは、人生の単純さということだった。一本のロウソクが小さく点り、しばらくの間輝き、やがて燃え尽きる。結局、人生というのは、それだけのことであり、そういう単純なものなのだ。私は、なぜ、ただそれだけのことを、こんなに難しくしているのだろう?(199頁)
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ここで図らずも挫折して出世競争から下りたけれども、この文章とは裏腹に、あのとき鬱病に罹らなければもっと出世できたはずだ、という思いが愈々強く、水口氏の言われるように「裁判所に対するルサンチマン」となり、倒錯的な逆恨みの書を出してみた、というところですね。退職後の仕事などに汲々とせず、入院時の悟りのように早く燃え尽きてしまえばいいだろうに、とも言えますね。

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022630162
今日は、五味文彦氏の「『枕草子』の歴史学―春は曙の謎を解く」を、半分ほど読んでみました。『枕草子』は昔からあまり興味がないのですが。
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 宮の御前に、内の大臣の奉りたまへけるを、これになにを書かまし、上の御前には、しきといふ文をなん書かせ給へる、などのたまはせしを、枕にこそ侍らめ、と申しかば、さは得てよとてたまはせたりしを、(後略)
 宮とは、一条天皇の中宮定子のことで、そこに内大臣から何かに使って欲しい、と紙が献呈されたことから、宮より清少納言にお尋ねがあった。天皇の御前に献呈された紙には中国の「しき」(『史記』)が書かれることになったのだが、こちらでは何を書くことにしようか、と。
 そこで清少納言が「枕にこそ侍らめ」と申し出たところ、では紙を与えるので書くように、と命じられ、(後略)(11頁)
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当時、「しき」の連想から何が浮かんでくるのかと考えるならば、「四季」もある。少納言は、四季を枕にして書いてみましょう、と答えたのではなかったか。天皇の下で唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その「しき」にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したものと考えたらどうであろうか。(18頁~)
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これが五味氏の新説です。また、文中の内大臣は通説では中宮の兄藤原伊周とするが藤原公季とすべきだ(12頁)という点と、清少納言は大納言で中宮大夫の道長の推挙で宮仕えした(63頁)という点が、新しい視点のようです。(余談ながら、冒頭の略系図に、平珍材、という文字通り珍しい名があるのですが、この平氏は何と読めばよいのでしょうか)

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本書執筆中、不慮の事故によって、三カ月の休養を余儀なくされたが実はその期間がなければ本書はならなかったであろう。枕を友とし、朝・夕に杖をついて散歩するなか、自然の息吹を吸った経験が本書を生み出したといってもよい。(273頁)
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これは、もうひとつの枕です。
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