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はじめに
Ⅰ 頼朝と兼実の対面
Ⅱ 桃崎氏による二条天皇黒幕説の提起
Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?
Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
おわりに
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p87以下
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Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
続いて、頼朝の発言の後半、「逆に依て其の身は亡ぶと雖も、彼の忠、又た空しからず。仍て頼朝已に「朝の大将軍」為るなり」に焦点を移そう。
まず、桃崎氏は、この箇所に見える「逆」を「天皇の裏切り」(6頁)と解釈するが、上文の「義朝の逆罪」について誤読が明白となった以上、これも当を得ない。義朝を滅亡へと導いた「逆」は、義朝自身の行為を指すと考えるのが適切である(そもそも、頼朝が天皇に対して「逆」という語を用いるとは、筆者には考えがたい)。また、「其の身は亡ぶ」は、むしろ「其の身を亡〔ほろぼ〕す」と訓読するのが、原文の語順に忠実であろう。
さて、ここで問題となる「逆」については、二つの解釈が成り立つ。以下、順を追って考察しよう。
一つ目の解釈は、「逆」に続いて「其の身を亡す」とあることから、「逆」を平治の乱における義朝の挙兵(=反逆)と解することである。『吾妻鏡』においても、地の文に「平治逆乱」という呼称が頻出するので、「義朝の挙兵がその身を破滅させた」と読むことは、とりあえず無理ではない。
ただし、建久2年(1191)8月7日に、頼朝が高階泰経に宛てた書状(『吾妻鏡』同日所引。『鎌倉遺文』第1巻第548号)には、「又平治乱之後、頼朝被配流候し時も」とある(下線は筆者)。頼朝自身は、平治の乱について「逆」表現の使用を避けた可能性も考慮に入れるべきであろう。また、義朝の朝廷への忠節を力説するのも、弁護の論理として、いささか歯切れが悪いところがある。そこで、次の候補に進もう。
はじめに
Ⅰ 頼朝と兼実の対面
Ⅱ 桃崎氏による二条天皇黒幕説の提起
Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?
Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
おわりに
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p87以下
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Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
続いて、頼朝の発言の後半、「逆に依て其の身は亡ぶと雖も、彼の忠、又た空しからず。仍て頼朝已に「朝の大将軍」為るなり」に焦点を移そう。
まず、桃崎氏は、この箇所に見える「逆」を「天皇の裏切り」(6頁)と解釈するが、上文の「義朝の逆罪」について誤読が明白となった以上、これも当を得ない。義朝を滅亡へと導いた「逆」は、義朝自身の行為を指すと考えるのが適切である(そもそも、頼朝が天皇に対して「逆」という語を用いるとは、筆者には考えがたい)。また、「其の身は亡ぶ」は、むしろ「其の身を亡〔ほろぼ〕す」と訓読するのが、原文の語順に忠実であろう。
さて、ここで問題となる「逆」については、二つの解釈が成り立つ。以下、順を追って考察しよう。
一つ目の解釈は、「逆」に続いて「其の身を亡す」とあることから、「逆」を平治の乱における義朝の挙兵(=反逆)と解することである。『吾妻鏡』においても、地の文に「平治逆乱」という呼称が頻出するので、「義朝の挙兵がその身を破滅させた」と読むことは、とりあえず無理ではない。
ただし、建久2年(1191)8月7日に、頼朝が高階泰経に宛てた書状(『吾妻鏡』同日所引。『鎌倉遺文』第1巻第548号)には、「又平治乱之後、頼朝被配流候し時も」とある(下線は筆者)。頼朝自身は、平治の乱について「逆」表現の使用を避けた可能性も考慮に入れるべきであろう。また、義朝の朝廷への忠節を力説するのも、弁護の論理として、いささか歯切れが悪いところがある。そこで、次の候補に進もう。
二つ目の解釈は、「逆」を上文の「逆罪」に結びつけて読み解くことである。これについては、次に示す『平治物語』の一節が参考となろう(下線は筆者)
【以下二字下げ】
去保元の合戦には、為義入道を、郎等波多野次郎にきらせ、纔に一両年のうちぞかし。今度の合戦にうちまけては、譜代の郎等忠宗が手にかゝりて身をほろぼす。「逆罪の因果、今生にむくふにて心えぬ、来世無間の苦は疑なし」と、群衆する貴賤上下、半は謗、半は哀みたり。
(『平治物語 学習院大学図書館本』中「長田、義朝を討ち六波羅に馳せ参る事 付けたり大路渡して獄門にかけらるる事」)
平治の乱で敗北を喫した義朝は、東国に落ちる途中、尾張国野間において長田忠致に討たれた。義朝の首級は都に上げられ、獄門の樗の木にかけられる。そのさい、義朝の首を見た貴賤上下の群衆は、「逆罪の因果」が義朝に報いたと誹り、あるいは哀れんだという。かつて保元の乱後、義朝は父の為義を斬ったさいに「ヲヤノクビ切ツ」と指弾された(『愚管抄』巻第4)。その因果の理法が時を置かず作用したと、解釈するわけである。
また、中世で義朝の滅亡を論じた史書として、北畠親房の『神皇正統記』がある。親房は、保元・平治の乱について触れたさい、義朝による為義斬罪と義朝の滅亡を結びつけ、次のように記した(下線は筆者)。
去保元の合戦には、為義入道を、郎等波多野次郎にきらせ、纔に一両年のうちぞかし。今度の合戦にうちまけては、譜代の郎等忠宗が手にかゝりて身をほろぼす。「逆罪の因果、今生にむくふにて心えぬ、来世無間の苦は疑なし」と、群衆する貴賤上下、半は謗、半は哀みたり。
(『平治物語 学習院大学図書館本』中「長田、義朝を討ち六波羅に馳せ参る事 付けたり大路渡して獄門にかけらるる事」)
平治の乱で敗北を喫した義朝は、東国に落ちる途中、尾張国野間において長田忠致に討たれた。義朝の首級は都に上げられ、獄門の樗の木にかけられる。そのさい、義朝の首を見た貴賤上下の群衆は、「逆罪の因果」が義朝に報いたと誹り、あるいは哀れんだという。かつて保元の乱後、義朝は父の為義を斬ったさいに「ヲヤノクビ切ツ」と指弾された(『愚管抄』巻第4)。その因果の理法が時を置かず作用したと、解釈するわけである。
また、中世で義朝の滅亡を論じた史書として、北畠親房の『神皇正統記』がある。親房は、保元・平治の乱について触れたさい、義朝による為義斬罪と義朝の滅亡を結びつけ、次のように記した(下線は筆者)。
【以下二字下げ】
義朝重代ノ兵タリシウヘ、保元ノ勲功ステラレガタク侍シニ、父ノ首ヲキラセタリシコト大ナルトガ也。古今ニモキカズ、和漢ニモ例ナシ。勲功ニ申替トモ、ミヅカラ退トモ、ナドカ父ヲ申タスクル道ナカルベキ。名行カケハテニケレバ、イカデカツヰニ其身ヲマタクスベキ。滅スルコトハ天ノ理也。凡カゝルコトハ、其身ノトガハサルコトニテ、朝家ノ御アヤマリ也。ヨク案アルベカリケルコトニコソ。
(『神皇正統記』下)
ここでは、父を殺めるという人倫から外れた行為によって、義朝はその身を全うしえなかったと説明され、義朝に斬罪を下命した朝廷の処置にも、痛烈な批判が加えられる。親房は、儒教的な天道自然の道理にもとづいて、義朝の滅亡を必然であったと主張するのである。親房が展開した義朝論は、のちに近世の栗山潜峰・室鳩巣・新井白石らに受け継がれることになる。
このように、中世前期では、仏教思想と儒教思想のいずれに立脚するにせよ、義朝の非業の最期は、父為義を斬った行為と結びつけられ、説明されていた。これは、親権絶対の中世において、当然生まれるべくして生まれた言説といえよう。以上を踏まえると、頼朝の発言に見える、義朝を滅亡に導いた「逆」は、上文の「逆罪」を受けたものと解して差しつかえなく、一つ目の解釈よりも高い妥当性が認められる。かくして、頼朝において、父義朝の非業の死が、祖父為義を殺めた「逆罪」によるという認識があったことがわかるのである。
そもそも、為義と義朝は、保元の乱以前から激しく対立しており、それには「トシゴロ、コノ父ノ中ヨカラズ。子細ドモコトナガシ」(『愚管抄』巻第4)と評されるような、複雑な事情があった。ゆえに、保元の乱における父子激突は必至の出来事であったが、殺父という最大の悖徳行為は、やはり義朝に厳しい道義的批判を免れさせなかったのである。これは、義朝の後継者たる頼朝にとっても、決して等閑視できる問題ではなかった。とくに、内乱期の政局にあって、頼朝が、多くの源氏一門に対して、自己の源氏嫡流としての立場を主張するさい、為義・義朝父子が繰り広げた骨肉の闘諍と、義朝による為義斬首、これらの凄惨な歴史は、ひとつのアキレス腱になった可能性がある。
また、これと別に注目すべきは、伊豆に配流された頼朝が、治承4年(1180)8月の挙兵に及ぶまで、日々「父祖」の頓証菩提のために阿弥陀仏の名号一千反を読誦し続けたという、『吾妻鏡』の所伝である。この「父祖」とは、卒然と読むならば、祖先一般を意味するように受け取れるが、そうではあるまい。むしろ「Fuso. フソ(父祖) 父と祖父と」(『日葡辞書』補遺篇)という古辞書の定義を勘案して、父義朝と祖父為義と考えるのが適切であろう。
かつて亀井勝一郎氏は、為義を殺めざるをえなかった義朝の悲劇が、その子頼朝の精神形成に深刻な影響を及ぼしたと推測し、「父の冷酷な運命は、頼朝にとっては生涯の癒し難い傷痕となったのではなからうか」という興味深い観察を示したが、これは肯綮に値する見解である。伊豆において父祖の菩提を弔う青年頼朝の胸裏には、父義朝が犯した「逆罪」の過去が、暗雲のように漂っていたのではなかったか。のちに文治元年(1185)、頼朝は義朝の菩提を弔うために、勝長寿院を造立する。その歴史的意義は、義朝の顕彰や落慶供養時の御家人統制などの政治性、あるいは伽藍建立に象徴される文化形成もさることながら、頼朝における亡父救済への深刻な希求に目を配って、精神史的観点からも評価を下す必要があろう。
ただし、建久元年における頼朝の発言については、その濃厚な政治性をこそ見逃すべきではない。すなわち、頼朝は、父義朝が「逆罪」の応報で滅んだにせよ、勅命に従って、祖父為義を斬ったことを「忠」と賞し、これを賞賛するのであった。この場面では、義朝の末路についての個人的感傷は払拭され、むしろ悲劇性が「忠」を荘厳する道具立ての機能さえ果たしている。鎌倉幕府を中世国家の軍事権門に定位しようとする政治家頼朝にとって、亡父義朝が背負った悲劇と忠節の歴史は、自己を他の武門から隔絶した「朝の大将軍」たらしめる、誉れある勲章に他ならなかったのである。
ゆえに、桃崎氏が「彼の忠 又空しからず」を「その振る舞いには忠誠心が満ちていました」(331頁)と訳したのは妥当とはいえず、むしろ「義朝の朝廷への忠節は空しくならなかった(=義朝の忠義の甲斐あって頼朝が見事に復権した)」と解釈する方が、義朝から頼朝への流れを明示しており、適切であろう。
兼実と対面する頼朝の相貌は、あたかも冷徹なマキャベリストのそれを思わせる。やはり、その人物は一筋縄でいかないのである。その一方、頼朝に潜む陰翳を帯びた罪業意識が、仏神への信仰と絡みつつ実朝に受け継がれ、より繊細な形で顕現することになる。
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義朝重代ノ兵タリシウヘ、保元ノ勲功ステラレガタク侍シニ、父ノ首ヲキラセタリシコト大ナルトガ也。古今ニモキカズ、和漢ニモ例ナシ。勲功ニ申替トモ、ミヅカラ退トモ、ナドカ父ヲ申タスクル道ナカルベキ。名行カケハテニケレバ、イカデカツヰニ其身ヲマタクスベキ。滅スルコトハ天ノ理也。凡カゝルコトハ、其身ノトガハサルコトニテ、朝家ノ御アヤマリ也。ヨク案アルベカリケルコトニコソ。
(『神皇正統記』下)
ここでは、父を殺めるという人倫から外れた行為によって、義朝はその身を全うしえなかったと説明され、義朝に斬罪を下命した朝廷の処置にも、痛烈な批判が加えられる。親房は、儒教的な天道自然の道理にもとづいて、義朝の滅亡を必然であったと主張するのである。親房が展開した義朝論は、のちに近世の栗山潜峰・室鳩巣・新井白石らに受け継がれることになる。
このように、中世前期では、仏教思想と儒教思想のいずれに立脚するにせよ、義朝の非業の最期は、父為義を斬った行為と結びつけられ、説明されていた。これは、親権絶対の中世において、当然生まれるべくして生まれた言説といえよう。以上を踏まえると、頼朝の発言に見える、義朝を滅亡に導いた「逆」は、上文の「逆罪」を受けたものと解して差しつかえなく、一つ目の解釈よりも高い妥当性が認められる。かくして、頼朝において、父義朝の非業の死が、祖父為義を殺めた「逆罪」によるという認識があったことがわかるのである。
そもそも、為義と義朝は、保元の乱以前から激しく対立しており、それには「トシゴロ、コノ父ノ中ヨカラズ。子細ドモコトナガシ」(『愚管抄』巻第4)と評されるような、複雑な事情があった。ゆえに、保元の乱における父子激突は必至の出来事であったが、殺父という最大の悖徳行為は、やはり義朝に厳しい道義的批判を免れさせなかったのである。これは、義朝の後継者たる頼朝にとっても、決して等閑視できる問題ではなかった。とくに、内乱期の政局にあって、頼朝が、多くの源氏一門に対して、自己の源氏嫡流としての立場を主張するさい、為義・義朝父子が繰り広げた骨肉の闘諍と、義朝による為義斬首、これらの凄惨な歴史は、ひとつのアキレス腱になった可能性がある。
また、これと別に注目すべきは、伊豆に配流された頼朝が、治承4年(1180)8月の挙兵に及ぶまで、日々「父祖」の頓証菩提のために阿弥陀仏の名号一千反を読誦し続けたという、『吾妻鏡』の所伝である。この「父祖」とは、卒然と読むならば、祖先一般を意味するように受け取れるが、そうではあるまい。むしろ「Fuso. フソ(父祖) 父と祖父と」(『日葡辞書』補遺篇)という古辞書の定義を勘案して、父義朝と祖父為義と考えるのが適切であろう。
かつて亀井勝一郎氏は、為義を殺めざるをえなかった義朝の悲劇が、その子頼朝の精神形成に深刻な影響を及ぼしたと推測し、「父の冷酷な運命は、頼朝にとっては生涯の癒し難い傷痕となったのではなからうか」という興味深い観察を示したが、これは肯綮に値する見解である。伊豆において父祖の菩提を弔う青年頼朝の胸裏には、父義朝が犯した「逆罪」の過去が、暗雲のように漂っていたのではなかったか。のちに文治元年(1185)、頼朝は義朝の菩提を弔うために、勝長寿院を造立する。その歴史的意義は、義朝の顕彰や落慶供養時の御家人統制などの政治性、あるいは伽藍建立に象徴される文化形成もさることながら、頼朝における亡父救済への深刻な希求に目を配って、精神史的観点からも評価を下す必要があろう。
ただし、建久元年における頼朝の発言については、その濃厚な政治性をこそ見逃すべきではない。すなわち、頼朝は、父義朝が「逆罪」の応報で滅んだにせよ、勅命に従って、祖父為義を斬ったことを「忠」と賞し、これを賞賛するのであった。この場面では、義朝の末路についての個人的感傷は払拭され、むしろ悲劇性が「忠」を荘厳する道具立ての機能さえ果たしている。鎌倉幕府を中世国家の軍事権門に定位しようとする政治家頼朝にとって、亡父義朝が背負った悲劇と忠節の歴史は、自己を他の武門から隔絶した「朝の大将軍」たらしめる、誉れある勲章に他ならなかったのである。
ゆえに、桃崎氏が「彼の忠 又空しからず」を「その振る舞いには忠誠心が満ちていました」(331頁)と訳したのは妥当とはいえず、むしろ「義朝の朝廷への忠節は空しくならなかった(=義朝の忠義の甲斐あって頼朝が見事に復権した)」と解釈する方が、義朝から頼朝への流れを明示しており、適切であろう。
兼実と対面する頼朝の相貌は、あたかも冷徹なマキャベリストのそれを思わせる。やはり、その人物は一筋縄でいかないのである。その一方、頼朝に潜む陰翳を帯びた罪業意識が、仏神への信仰と絡みつつ実朝に受け継がれ、より繊細な形で顕現することになる。
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