投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月22日(日)22時29分12秒
ということで、『増鏡』と『とはずがたり』を比較してから井上宗雄氏の考証に『続史愚抄』の若干の情報を付加してみました。
まあ、『とはずがたり』の「御堂供養は曼荼羅供、御導師は公豪僧正、讃衆二十人にてありしのち、憲実御導師にて定朝堂供養」などという部分はそれなりに事実を反映している感じもあって、仏教関係の史料を詳しくあたれば何か出てくるのかもしれません。
ただ、既に後深草院の血写経の関係で検討したように、建治元年(1275)前後の『とはずがたり』の記事は時間の経過が極めて不自然で、史実と整合性を取ることが困難です。
井上氏の言われるように、<『増鏡』にみえる、移徙と供花のにぎわしさが、(確実な史料によって)事実であるとすれば、建治元年四月の移徙ではない(この時はまだ煕仁親王の立坊は決っていない。むしろ後深草方の沈滞期であった)>のですが、『とはずがたり』の時間の流れの中では、巻一の終わりで煕仁親王の立坊が決まっていて、巻二の(建治元年としか思えない)四月の時点で「移徙と供花のにぎわしさ」があってもストーリー的に破綻はなく、むしろ自然です。
結局、井上氏の言われるように、史実との整合性については「弘安二年三月とみる方に分があるが、もう一つ確実な(『増鏡』の依拠した)一等史料が出現するまでは、結論は出しにくい」話です。
ところで、長講堂領という持明院統の経済的基盤である膨大な荘園群に関係する六条殿長講堂の再建と、それに伴う移徙・堂供養については、史実との整合性を検討する必要が残るとしても、当面の問題である前栽合わせ自体は単なる遊興です。
そして、その遊興において、誰かが受け持ちの区画につくったおもちゃの橋が夜中に盗まれて別の人の区画に移されていた、などという些事は、歴史的重要性のカケラもない、本当にどうでもよいような話です。
『とはずがたり』の場合は、次田香澄氏の解説にあるように、後深草院二条とその叔父・四条隆顕の親しい関係、そして隆顕の人柄を語っていて、物語の展開上、それなりに重要性があるともいえますが、『増鏡』にはそもそもこんな話をわざわざ取り上げる必要性が全く考えられません。
とすると、『とはずがたり』の前栽合せのエピソードが『増鏡』に採用され、しかも橋を盗んだ人が四条隆顕から平経親に入れ替わっている理由はいったい何なのか。
『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物と考える私の立場からは、これは『とはずがたり』と『増鏡』という二つの庭を造っている後深草院二条が、『とはずがたり』と『増鏡』の間に橋をかけて、この二つの書物の間にはどんな関係があるのでしょうか、と読者に謎をかけて楽しんでいるのではないかと思います。
そして、『増鏡』作者は、こんなカラクリを考える自分は「いと恐ろしく心かしこくぞ侍りける」(本当に恐ろしいほど賢いなあ)と自画自賛しているのではないかと考えています。
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