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佐藤雄基氏「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(その3)

2022-11-20 | 唯善と後深草院二条

千々和到氏が『日本歴史』800号(2015)の「日本史のなかの嘘」という特集に「起請文にウソを書いたとき」という文章を寄稿されているのを知って、「起請返し」のことを書かれているのかなと思って読んでみたのですが、『太平記』に描かれた尊氏・直義の起請文破りの話が中心で、「起請返し」への言及はありませんでした。
佐藤雄基氏も「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(『歴史評論』799号、2015)の注(17)で斎木一馬氏の「"起請破り"と"起請返し"」を挙げておられるだけなので、「起請返し」については新たな専論はなさそうですね。
さて、上記佐藤論文の「三 儀礼のもつ機能─古代史・近世史の動向から─」に基づき、近世の起請文研究の動向を少し見ておきます。(p39以下)

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 一方、近年の新たな動向として、近世史の側から起請文の研究が進展している。大河内千恵氏は、江戸中期までの幕府・大名家の起請文を具体的に検討し、「江戸幕府起請文が形式的である、という従来の評価は、「書式が定式化している」という意味であったなら、それはまさしく正しかった。しかしそれは、「形骸化している」「意味がない」ということではない。同じ書式で書かせることこそが幕府にとって重要であり、諸大名家にとっては服属の証となったのである」と主張する。起請文のもつ形式性・儀礼性の果たす政治的機能が着目される研究段階に至ったのである。
 もとより「起請文の死」という千々和到氏の議論は、書式の定式化のみならず、中近世移行期における神仏観念の衰退という問題と不可分であり、大河内氏の研究もまた、神仏観念の後退という評価を否定するものではない。だが、起請文という形式が重みをもつがゆえに一揆契状は起請文という形式をとったという呉座勇一氏の議論を念頭におくとき、大河内氏の研究は、神仏観念とは必ずしも関わらず、政治の場において起請文・誓約という儀礼・形式の果たす独自の役割を示唆しているようにも思われる。
 近世の政治と起請文の関係については、岡山藩をフィールドとした深谷克己氏の研究が注目される。深谷氏は「池田家文庫」の調査から、役職就任にあたっての起請文の徴収が近世においても慣習化していたことを明らかにする。それとともに、『池田光政日記』を用いて、「無差別に家臣から誓紙を取っているのではなく、一つには依怙贔屓が出やすい役務についた場合、もう一つには職務に遅疑逡巡が起こるような場合に誓紙を徴している」と論じ、起請文の徴収される具体的な場面を解明している。神仏への信仰という問題についても、「光政は、誓詞をたんなる形式と考えていたのではなく、また本気で神罰冥罰が人に下ると考えていたのでもなく、主従間の約定について責任を持たせる政治方式の一つとして重視し」ており、「いわば法令秩序を私的関係において下支えする装置」として起請文を利用していたと指摘するように、単なる先例主義や形骸化した儀礼とはせず、形式・儀礼が果たす独特の効果・機能を解き明かしている。
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注記を見ると、大河内千恵氏の見解は『近世起請文の研究』(吉川弘文館、2014)から、深谷克己氏の見解は「近世政治と誓詞」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊48、2002)からですね。
私はいずれも未読ですが、深谷氏の「依怙贔屓が出やすい役務についた場合」云々は直ちに「御成敗式目」を連想させます。
「御成敗式目」には冒頭に宗教関係の条文が二つあり、末尾に起請文が置かれていますが、通読してみると宗教的色彩は希薄であり、「【北条泰時】は、誓詞をたんなる形式と考えていたのではなく、また本気で神罰冥罰が人に下ると考えていたのでもなく、【評定参加者】の約定について責任を持たせる政治方式の一つとして重視し」ていたように思われます。

「御成敗式目」の宗教的色彩
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/122893b06739d3a4c380131d2aa6b19c

佐藤氏も「御成敗式目」に言及されていますね。(p40)

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 これらの近世史の新しい研究動向は、アーカイブズの視点をもって儀礼的な文書を含む史料群を捉える点に特徴をもつ。その意味では史料論の隆盛という研究潮流上にある。ここで明らかにされた誓約儀礼のもつ機能自体は、中世においても見出させるものであろう。深谷氏は「法か神かではなく、「法威と抱き合わせにされた神威」としての政治的効果」を指摘するが、以前拙稿で論じたように、鎌倉幕府の裁判は、評定衆や奉行人たちが「無私」の審理を誓って起請文を立てた「御成敗式目」に象徴的にみられるように、神仏への起請を媒介にして理非判断を根拠づけようとしていた。【後略】
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このように「誓約儀礼のもつ機能」に着目すると、起請文は「御成敗式目」の時代以降、一度も死んでおらず、廃藩置県で起請文の徴収が途絶えるまで、ずっと生きていたということになりそうです。

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