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勅撰和歌集の終焉

2020-08-10 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月10日(月)10時00分29秒

山川出版社の「日本史リブレット」シリーズの一冊、末柄豊著『戦国時代の天皇』は本文が僅か112ページの小著ですが、内容的には決して入門書ではなく、専門的な研究者にも示唆が多いだろうと思われる本ですね。
文学への目配りもきちんとされていて、勅撰和歌集の終焉について、次のような解説があります。(p8以下)

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 幕府の衰退と朝儀の衰微とが連動していたことは、中世最後の大嘗会となった後土御門天皇のそれが、まさしく応仁・文明の乱の直前に行われたという事実によって象徴される。大嘗会が挙行された一四六六(文正元)年十二月十八日から七日ののち、畠山義就が上洛を遂げている。【中略】
 後土御門の大嘗会は、かろうじて応仁・文明の乱から逃げ切ることができたが、巻き込まれて息の根を止められてしまったのが勅撰和歌集である。【中略】
 一四六五(寛正六)年二月、後花園上皇は、足利義政の提案にもとづいて勅撰和歌集をつくることを決定し、和歌および蹴鞠を家業とする飛鳥井雅親を編集の責任者である撰者に任じた。雅親を頭首として、編集を担当する和歌所が設置され、後花園・後土御門・義政をはじめ、公武の有力者から材料として一〇〇首ずつの詠歌を提出させるなど、作業は着々と進められた。一四六七年(応仁元)年四月十七日には、義政が弟の義視をともなって和歌所を見学しており、作業は佳境を迎えていた。
 ところが、五月中旬、播磨国(兵庫県)など各地で戦いの火ぶたが切られ、同月二十六日には京都でも東西両軍の争いが始まる。京都における戦闘は市街戦の様相を呈し、多くの寺社や貴族の邸宅が放火や略奪の惨禍に遭った。六月十二日、西軍の一色義遠が自邸に火をかけた際、和歌所が置かれた飛鳥井雅親の邸宅も類焼してしまう。【中略】
 撰者の雅親は自家の所領がある近江国柏木郷(滋賀県甲賀市)への避難を余儀なくされ、事業は立ち消えになる。大嘗会は、一六八七(貞享四)年、東山天皇の即位に際して再興され、明治以降に大きな変容を遂げながら現代におよんでいるのに対し、勅撰和歌集は二度と編まれることはなかった。
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私の勅撰和歌集への関心は京極派の風雅和歌集で終わってしまっていて、室町期のことは全く無知だったのですが、応仁の乱の勃発がほんの少しだけ遅れていれば、古今集以降、連綿と続いた二十一代集にもう一つ追加されていたことは確実だった訳ですね。

飛鳥井家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6
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