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大 愚 言 ・馬鹿がまた逝ってしまった 大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年01月31日 17時26分29秒 | 大愚言
この一月二日、四十年来交誼のあった映画監督・須藤久が享年八十歳で急逝した。死因は風邪を拗らせての急性肺炎だった。
僕が、彼の著書「現代暴力考」(仮面社刊)のカバーデザインを担当したのが交誼の始まりである。
彼は日本共産党出身のバリバリの左翼の闘士であったが、妙にウマがあった。
彼は処女作「歴史よお前は誰のために」や「狭山の黒い雨」など一貫して、部落差別の問題を深く掘り下げて、世に問うていた。その頃の僕は、今思うと青臭くて気恥ずかしいのだが、

 世間はとかく右翼・左翼と分別したがるが、右翼・左翼というより、権力を握った者と抑圧される者、
 つまり上翼と下翼というべきだ。自分は下翼の側に在って、上翼と戦うのだ。
という考え方に立っていた。
そんな叛骨の気質が、彼と一致したのだと思う。

以来、彼とは誘ったり、誘われたりと左右を弁別することなく社会運動を共にしてきた。
昭和五十三年には映画「日本暗殺秘録」(中島貞夫監督作品)を上映し、彼や俳優・石濱朗、鈴木邦男を招いて暗殺・テロ・クーデタの必然性と可能性について論議した。
同五十四年には、彼の著書「破邪顕正の浪漫」(島津書房刊)をテキストに「須藤久と浪漫を語る会」を開催したりした。

当時、彼は東映のプロデューサー・俊藤浩滋、俳優・鶴田浩二と義兄弟の盃を交わしていた。
その兄弟分だった鶴田の死後、まもなく、野坂昭如が鶴田批判をする文を週刊誌に発表した。
そのことに対して、彼は野坂に公開決闘状を突きつけた。
馬鹿仲間の竹中労や野村秋介、僕が仲裁・奔走して事なきを得た。
また、その野村とも、映画「斬殺せよ」(平成二十八年八月六日付「大愚言」参照)の製作過程において、プロデューサーの野村と監督の須藤の関係が悪化して、僕は間に立ってとても苦労したこともあった。
常に喧嘩ネタの尽きない始末に負えない「監督馬鹿」であったが、今となればそれもよき思い出である。

野村は、平成五年十月二十日、朝日新聞東京本社の社長室において、拳銃自決した。その死は、西郷や松陰(平成二十八年十月二十日付「大愚言」参照)、三島由紀夫と系譜を一にする「大愚行」であった。

竹中が逝き、野村が逝き、須藤が逝き、そしてまた、一月二十一日には、最後の「役者馬鹿」ともいえる松方弘樹が逝った。
松方のことは、覚悟していたこととはいえ、現実となると厳しくも無残である。

世の中、馬鹿がどんどん居なくなる。

来る二月十四日、ハートピア京都にて須藤・松方の合同お別れの会を斎行する。


(平成二十九年一月三十一日認)
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