思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

別れ

2018-09-30 03:23:13 | 文章
  くだらない話だが、ゲームでさえ自殺を繰り返していると止めようとする人がいることに驚いた。小刻みに視点を横に振って、死んではいけないと伝えてきた。面白い現象だ。
  それはそうと、前に成長するためには不条理が必要だと書いたような気がするが、未だにその考えは変わらない。出会いと別れ、なんてありきたりな表現だが、現実世界ではその繰り返しなのも確かだろう。井伏鱒二が漢文の和訳で「さよならだけが人生だ」と書いたことがあるが、まさにその通りのように思う。
  不思議なのは「別れ」にしたって、色々な別れ方があるということだ。ただ、違いの利害の不一致を理解して合理的に別れようとする人もいれば、これがどうしても認められなくて喧嘩別れのようになる人もいる。そもそも、死別することだってあるだろうし、記憶から消えてしまえばほとんど別れているようなものだろう。
  「別れ」とは無と同じだ。別れた以上相手のことを知ろうともしない、あるいは、知ることもないのだろうから、今相手が生きているのか、死んでいるのかも分からなくなる。この何も分からない状態が無だと思うのだ。僕らが感覚器官を用いて脳で記憶しているとすれば、無はその感覚から遠ざかることに違いない。
  二度と会うことのない相手が生きているか死んでいるか、それを想像すること自体が一つの虚構でしかないこと(あるいは、死に別れた相手を思い出すことも同様だろう)が、どうもこの「無」の正体らしい。しかし、一般的な話だが、男の方がこういうのは足を引っ張り続けるものだそうで、女は簡単に次の相手へと乗り換えられるものらしい。そうすると、この「無」とは一つの男性性を有している可能性もあるのだろうか。よくよく考えれみれば、この生存の空想はきわめてリアルな虚構に違いない。いや、リアルとは語弊がある。「虚構」と考えること自体を忘れかねない事柄だろう。
  人はほとんど利己的なものから逃れられない。例外があるとすれば、咄嗟に身体が動いた、というやつぐらいで、大抵は自分が得をするか損をするか、自然と考えているものだ。ということは、人は不条理なものに違いない。いや、逆説的に真に条理なのかもしれない。本当の不条理は実のところ、利己的な面を完全に失った状態にあるのかもしれない。しかし、そんな状態など「無」しかないだろう。腹が減ったら飯を食う、それだけでも利己的ではあるだろうから。
  そもそも「不条理」というものは、所詮自分の思惑通りにならないことでしかないのかもしれない。それを肯定するかしないか、ただそれだけのことなのだろう。もちろんキリスト教を考慮した場合の「不条理」はそれなりの定義があると思うが、それにしたってやはり人間である以上仕方のないことだ。そう考えると、不条理文学というのは、根底に宗教(あるいは、規範意識?)があるのかもしれない。
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