思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

成長物語

2018-06-19 16:20:51 | 文章
いよいよ短編集が完成し、一部の方にはその試作品を読んでもらっている。ほとんど修正する気がないので(というのも疲れるので)実質体験版というよりは製品版に限りなく近いもの、アーリーアクセス?  が近いかもしれない。作品は五つで124ページとなる。若干の修正を加えるがページ数は変わらないだろう。このうち、1作品
は50ページ近くもある。この作品は「シティオブファントムペイン」というとても格好良い題名をつけられ(『幻肢の街』だ。それにしても、英語にするだけで喉を引っ掻きたくなるぐらい格好いいな)、それまでの中でも長く、出来としてはどうだろうかいまいち分かりかねるが、とりあえずの構造としては整えられただろうとは思っている。ただ、少しテーマ的に疑問もある。
  ネタバレをしてしまうが、本作品のテーマは「虚飾を捨て、自己を受け入れる」という面にある。この作品を読む限り、その為には、破壊と時間が必要らしい。それで良いのか?  と思いつつも、自分の過去を振り返ると、やはりそれしか良いものはないように思う。環境を変化させるには現実の事情を片付けなければならない。例えば、高校生活であれば転校する、卒業する必要があるわけで、実家から離れたければ大学は遠くへ、金を貯め遠くへなどなど、何にしても時間のかかるものらしい。
  ただ、これは物語的に言えば、あんまり成功する考え方ではないような気がする。つまり、いわゆる典型的な話を考えると、基本的には大きな事象が起きて不幸が訪れる→その不幸から抜け出し成長する、までが基本の形とすれば、この作品は細かな事件こそ起きるものの、大きな事件は起きた後となっている。最も大きな事件は、もう終わっている前提で始まる。
  現実の僕らはどうだろうか。ある不幸が起きて、少しずつ精神が回復していくのに、ただただ時間だけが必要だったように思う。どれだけ理屈で分かっていても、凝り固まった無駄な何かに縛られ続ける人もいれば、そもそも理屈が立てられないせいで、とんでもないやつだという自覚さえ持てないのもいる。これはもう資質のようなものとしか言いようがなく、そいつ自身が本来どうありたかったか、が何よりも反映されているのだろう。
  例えば、嫉妬深さから小説を書いていたとすれば、その嫉妬深さの元(仮にいわゆるリア充と呼ばれるものに恨み辛みを抱いたり、評価された人間への恨み辛みを抱いたり)に自分がなりたいのだということを暗に仄めかしている。根本的には、こうした恨み辛みなどの攻撃的感情で書いたところで、ある意味では現代らしいかもしれないが、決して呼んでいて心地良いものとはなり得ないだろう。仮に戯画的に作り上げるだけの冷酷さがあれば別だろうが、それは中々精神的な、虚構に対しての技巧が必要になるわけで、素人の僕らには中々そこまでの腕に達するのは難しいように思う。恐らく良いものを作る人たちに共通するものは、作る上で極めて冷酷なことだ。素人はどうもこの辺りに、現在の感情を絡めたがるものらしい。ということは、現在の問題が解決しない限りは上手くできるはずがないとも言える。
  この「解決」は、毒親だから自立して家を離れる、という実生活上の解決ではなく、作る上での精神性にそうした背景を絡めないことができる、という意味合いになる。ただ度々思うのだが、根本的に読解能力が低い場合は書けないだろうし、自己愛が強すぎる場合はそれを自覚する必要がある。典型的な悪い例は「純文学作家だから」などと言い逃れることで、その定義にも興味の湧かない事柄に固執するのも問題だが、何よりも根本的に小説家を特権的な何かとでも思っているかのような思考がいけないと考える。
  小説を書くしか能がない、というのは別に「小説だけが自分を褒めてくれるから」ではない。どうしようもなく生きづらい中で、唯一続けられるから書くのであって、そりゃ褒められる分には良いだろうが(褒める側の思惑を考慮しなければ)、褒められなくても良い作品をコツコツ作っていけることが大切だろう。これは小説だけでなく、現代はあらゆる分野でそうなっているものと思われる。承認欲求が強まっているとしても、良い作品はそれを全面に押し出さない技法が施されているに違いない。
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