思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

「君」について

2018-01-29 12:19:24 | 日常
僕は自分の作品に度々「君」が出てくることがある。それを用いる作品というのは一貫して「自意識」が関係した作品かもしれない。
  「君」という使い方は今でこそそう珍しくもないだろうが、昔の作家なら誰が用いただろうか?  すぐ頭に浮かぶのは太宰治だ。太宰の場合、虚構性を高めるために(この「君」は特定の誰かに向けたのではないとすれば、読者に向けられたものだと断定して良いだろう)用いているように思う。メタとは、語り手が顔を出すことだけでなく、読者の存在に触れてくることでも成り立つということだ。
  このメタへの意識は結果的に「自意識」へと繋がっているかもしれない。読者の存在を意識するということ自体、文章を書く上では必要不可欠で、誰もがある程度は考えているはずのものだが、あえてそれに触れていくということはどういうことなのだろう?  一つは虚構性が高まるように思う。特に一人称で始める場合、その世界観がファンタジーでもない限り、作者=一人称と結びつけがちだ。そうなると、読者はこれが実話に近いものとして読み始めることになるだろう。だが、「君はどう思う?」などと出てきた場合はどうなる。「あれはニコチンが切れて苛立っているだけだと思うのだが、君はどう思う?」とくれば、語り手は読者に尋ねる形となっている。太宰の何かの作品でも、そのような場面があったはずだ。その時は確か、残念ながらこの疑問が読者から返ってくることはないとかなんとか、つまり、読書において存在するものは厳密には一人の読者だけであって、どれだけ語り手が読者に語りかけようとその返事を聞くことはないということだろう。何の作品かは忘れた。『晩年』に入っているやつだった気がする。
  ここまで書いてから数日が過ぎた。それでまたしばらく「君」という効果について考えていたのだが、思うに自己を晒さない手段の一つと言えるかも分からない。「自己を晒さない」というよりも、「本心を晒さない」の方が正確だろうか。何か根本に抱える諦念あるいは悲哀、あるいは虚無、何でも良いがそうした感情の上澄みを隠せるような気もする。ただ、逆に底の方が滲み出てくるようにも思う。
  「所詮虚構なんだから」という言葉を使う人は僕も含めて大勢いるだろうが、それをただ単純に「虚構と現実を混ぜるなよ」ぐらいの意味合いで使うこともあれば、「虚構なんだからどれだけ現実にしたって、それは嘘なんだよ」と回りくどい感傷を持たせることもあるだろう。この「君」というのは後者の効果を含めている可能性もある。ある意味、実際の出来事に即した告白を軸にした小説(私小説と呼ばれる類だが、その定義に慎重にならざるを得ない結果こんなにも回りくどい表現を用いることとなった、というのはもう何度書いたかも分からない)を否定する形と言えるかもしれない。
  小説は読後の感想を聞くなりなんなりの交流方法はあるとはいえ、作者は読者に作品を与え続けるものという片一方の構図は揺るがないだろう。何という孤独だ。

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