思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

弊害

2018-06-14 10:15:23 | 文章
ツイッターなんかの話題に上るものはどうも不穏だ。最近は男性憎悪的な女性主義が目立っているような気がする。こんなものが直接小説のテーマとも重なっている人たちも若い世代には出てくるのだろう。
  そういえば、素朴な疑問なのだが、日本の娯楽と呼ばれるものは根本的な解決(あるいは現実的な解決)を図ろうとしないところがある。実生活上でモテないからといって、ハーレムものやギャルゲーで性欲を満たしたりするのだろうが、現実では満たされないので虚しさが残る。娯楽が現実逃避の役割しかないとすれば、この虚しさを払拭するには現実に立ち向かわなければならない。ただ、実際そこまで考えるにとは少ないのだろうし、だからこそ、次の虚構が売れるようになるわけで、お金を回すにはこうした欲求不満を完全に満たすのではなく、程よく現実と隔離されている方が良いということらしい。「感動」を涙を流すことと捉え、「娯楽」を楽しいとしか捉えられない、そんな印象を受ける。
  話を戻すと、根本的な擦れを感じるのはあくまでもツイッターは国民御用達のアプリケーションではないということで、ツイッターの発言だけで国民に気を落とす必要はないということだ。これだけは忘れないでおきたい。どのような方々がツイッターを用いるのか、それが見えてくれば(というよりも、なんだか資本主義の弊害な気もする)自然とツイッターの発言意図も見えてくるだろう。
  別にツイッターを非難する気はない。実際、創作物の宣伝には都合が良いだろうし、同じ趣向の方を見つけるのも便利だろう。問題は見られる意識の欠如であって、つまり、想像力の欠如に他ならない。誰でも見ることができるということは、それだけ非難もできるだろうし、統制もできるということだ。
  いや、あるいは?  あまりにも自分の情報を開示することに抵抗がないのだろうか。ある程度のキーワードで調べれば簡単に誰が誰だか特定できるものだ。文学賞の名称で調べれば受賞者や落選者を調べられるだろうし、名称がないとしても、落選結果の時期から考えれば簡単にどの賞か分かってしまう。それが気にならない人が増えたのか、あるいは、自分だということを強調せずにはいられないのか。何故そんなに自分を愛せるのか。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 完成 | トップ | 右とか左とか »

コメントを投稿

文章」カテゴリの最新記事