思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

自殺と消失

2018-11-20 11:24:26 | 文章
昔、自殺を考えたことがある。それが何回あったとか、どれどれこういう理由でそう思ったのだとか、そうしたくだらないことは置いておくとして。改めて「死」とは、受動的なものに過ぎないことを考えている。
  仮に能動的に、主導的に死が訪れたとして、結局主導となるのはそれを受け止めざるを得ない人々でしかない。どれだけ自由意志だろうと、思想の表現だろうと、肝心なのはそれを受け止める側の心象に他ならない。
  とすれば、受け止める側はある程度の前知識があれば、そう思い込む可能性がある。例えば、元々自殺した当人が「世の中は辛い」という情報を流しておけば、その死因が例え足を滑らせただけだとか、電車で小便漏らしただけだとか、そんなことはどうあれ「世の中は辛い」の情報だけ残されることになる。遺書と全く同じだ。
  記憶さえ虚構の一部に過ぎないのだから、遺書が真実を語るとも限らない。「ぼんやりした不安」は何も社会を語ったのではなく、文学を語ったのでもなく、後世で自分が認められているかどうかの不安だったかもしれない。あるいは、AIよって制御されたずっと先の未来を想像して不安だったのかもしれない。さっき湯を入れたカップ麺の時間を計り忘れただけ?  十分ありうる。
  そう考えると、ダイナミックな死を遂げた人物というのは、それだけで営業戦略的な要素が出てきてしまうと思う。太宰も三島も、名誉を求めていたのだろうか?  確かに二人とも現代にも名が残っているが、結局使われているのは「自殺」「ゲイ」「文豪」とかいう記号ばかりで、肝心の作品は疎かになっているのではないか?  キリストだってそうだ。ユダが裏切らなければそうもてはやされなかったんじゃないか?  と考えると、ユダはキリストのプロデューサーなわけだな。
  となると、自殺願望者にもある程度の違いがあるような気がしてきた。考え抜くと、自殺願望も厳密には自殺ではないと思う。他者から逃れたいなら、他者の記憶を消さなければならない。とすれば、本当に求めるものは自殺ではなく、自身の消失に違いない。
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