思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

久しぶりに

2018-12-13 00:45:57 | 文章
知人がなんとかという投稿サイトに載せ出したのを聞いて、野次馬がてら軽く目を通した。文章は大正文学的な調子に現代の要素が混ざっているので、だいぶ読みやすくなった。これだけでも随分な進歩なので、この調子で書いていけば良いと思うのだが、ただ内容はいわゆる私小説と呼ばれる類に違いなかった。葛西善蔵のような類だろう。
  今更私小説の批判云々をするつもりはないが、根本的に違和感が生じるのは、社会的な位置としての孤独と、思想的な孤独の違いにあるらしい。
  具体的に書くと、その作品においての孤独は、対称に明るい世間を置くことで、それに適応できない・もしくはそうした友がいない自分を演出することで生じている。つまり、明るい世間への羨望的な視点が含まれることによって生まれる孤独感となっている。根本的に社会との繋がりを強く持ちたい・あるいは強く願っている人物となっている。
  どうもこの点がいまいち分からない。僕は華やかな街を歩いていても、音と色が煩わしいので、裏路地を歩きたがるのだが、その作品に描かれる「私」はその華やかさに憧れているらしい。もう少し簡単な書き方をすると、世間に適応しようとする「私」なのだろう。
  文学史における孤独の表現は一体どのようなものだろう。社会的位置からの孤独は滑稽に描かれることが多いような気もするが、そうでないとすれば葛西善蔵辺りだろうか?  いや、あれはあれで衣食住が満たされるのか心配になる。今回読んだ作品は別にそう心配にはならない。
  精神的な孤独と言われると、梶井や井伏の印象を持つ。彼らの違いは孤独の描き方であって、梶井や井伏の場合は社会的に孤独でなくとも、思想そのものが孤独なせいで、他者との交流の中でも孤独が出てくる。
  彼らの孤独は坂口安吾『文学のふるさと』で概ね代弁されているように思う。この系譜の作家たちは割合この一貫した孤独観を持ち合わせているのではないだろうか。

"それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。"

  何はともあれ、随分読みやすい調子にはなっていた。テーマ的な欠陥は置いておくとして(これを肯定するなら、読者層もまた世間への固執を意識した読者層だろう。テーマ性だけで見れば、本作品は別に文学である必要はなく、ネットのチラシの裏的な扱いのコピペのようなものだろう。この手法ではいつまでも同じことを書くことになるので、ネタが尽きるか、飽きられる可能性があるのも一つの欠陥と言える。どれだけ人を騙せるだろうか)、この読みやすさには、一先ず成長を感じた。今後読むことがあるとすれば、大きくそのテーマ性が変わってからだろうが、それはまだまだ先のことのように思われる。
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