思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

再読に耐えうるものとそうでないもの

2018-02-11 14:26:54 | 日常
昨日(書き始めた日からすれば昨日なんだが、投稿したのは随分後だぞ。ややこしい表現を用いやがって)S末先生と再読の価値について話したのだが、改めて思うのは再読の価値を決定する一つの要因は、どうやら筋書きにはあまりないように思うということだ。
  自分がさ既読したい作品、小説でも、映画でも、アニメでも、漫画でも、絵画でも良いだろう。再び読みたい・見たいと思うようなものは、実はその筋以上に表現の心地良さが存在しているように思う。もちろん表現の好みは個々で異なるので、それぞれがそれぞれの再読の価値を定めれば良い。ダリの時計が溶けている絵なんて、あれのどこがいいと言ったら結局あの背景の青にあるんじゃないかと思うわけだ。

  話は変わるが、S末先生には他のことも尋ねた。超写実主義と呼ばれる絵画に僕は否定的だという話をしたのだが、もう少し話を整理しよう。
  超写実主義という主義があるのかないのかは分からないが、絵画雑誌に載っていたから多分あるんだろう。小説で言えば作家=私の部分をひたすら強調したものとなっている。小説において、できるだけリアリティーを高める工夫を凝らすなら先ず何をする?  「こんな括弧を用いる時点で嘘っぱちだ。人はその会話の一つ々々まで憶えていられないんだからね」となると、「」は使わないとして、細かな動きも覚えていられないだろうから大まかに描くことになるとして。結局、日記の形が最もリアリティーが高いのかもしれない。「今日は遠足に行きました。楽しかったです」なんてものが実は最も洗練されているのかも分からない。そもそも、記憶というもの自体に確信を持てるかも曖昧ではないか?  とすれば、僕らが生きているこの人称視点も虚構と呼べるかもしれない。
  話は戻る。僕はこの超写実主義があまり好みではない。あそこまで写実的なら写真で構わないじゃないか。そういう話を振ったのだが、S末先生も同意された。彼らは(超写実主義者)写真を元に描いているそうで、そのせいか静止した絵に見えるらしい。本来はモデルがいるわけで、そのモデルもずっと固まっているわけではない。その辺りの動きが何となく絵に反映されるそうだ。S末先生は度々感覚的な説明をされるが(この辺りは僕と似たものがある)不思議と妙な説得力があった。また、好きな絵画の話を振ったのだが、若い人の作品は見られないそうだ。見る余裕がないというより、やはり敵同士というのか、楽しんで見るという感覚には至れないらしい。その点がまた同意できる。

  小説を書きたいという人はいくらでもいるだろうが、彼らは何を見て・読み、書きたいと思うのだろうか。少なくとも、生きている作家に影響されているなら、その作家に任せれば良い。まだまだ新作が出てくるのだから、出版社と作家にとっての良い読者であれば良い。ただ、自分の作品を作り上げる場合はそうもいかない。影響は免れないが、同じものを作ってはならない。沿うのではなく、どこかで分岐していかなければならない。流行りものに乗じた作品の大半は忘れ去られはしないか?  今ならLGBT、承認欲求、老後の生活、色々あるだろうが、何年も残る作品はどれだけあるだろうか。どうせ作るなら、残るだけの出来を目指したいところだ。もちろんそれは出版物という商品として残るのではなく、一人の人間に残り続けるものでありたい。まさに一匹の羊の為だな。
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