思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

趣味と性格

2018-09-03 00:53:21 | 文章
趣味と性格は連動するものか?  するものだろうとは思うのだが、当人の生きる上での信条に沿うかどうかという話ではないかと思う。もちろん、信条も考えない層もいるではないか?  と思う方もいるだろうが、それは「信条もない層」として扱えば良い。
  昨今の創作事情が、仮に「天才」「才能」これらの先にある「生活」「有名」といった要素からなっているとすれば、ある程度奇抜なものほど好まれる場合が多いかもしれない。いわゆるサブカルクソというやつだ。彼らの問題は、この「奇抜」があくまでも表面上の繕いで済ませてしまう点にあって、いつまでも揺かごの赤子で居ようとすることだろう。
  「表面上の繕い」も技巧の一部には入るだろうが、この技巧は「営業方法」に近い。例えば、インタビューの受け答えは創作者との距離が縮まるような気もするし、その受け答えを知った上で曲を聴くことで、より深い感銘を受けられることだろう。これは「天才」なのではなく、あくまでも「天才」を作り出すための営業方法でしかない。実際、それが技巧的に優れているのかどうかを判断できる連中は、こうした営業方法に飲まれようとはしないだろう。
  創作者含めてのファンというのは大勢いる。だからこそ、その創作者を利用した金儲けは積極的に行われる。この営業方針次第でファンの形が現れてくるものと思われる。サブカルクソの系統は憧れが根本にあるかもしれない。イメージにあるものはファンの気持ち悪さなのだが、この気持ち悪さは信仰心の強さ、実際の創作者を知らない距離でいるというのに(インタビューなどの内容を鵜呑みにできるのは幸せでもあるが、同時に自己の弱さのような気もする)信用できてしまう愚かさなのだろうが、この根本は対象が理想像だからこそ神格化してしまうのかもしれない。「平凡な自分にも何らかの才能があるはず」や「辛い境遇だからこそ何かの才能に目覚めるはず」など、あるいは、社会で働くことの億劫さから転じての憧れかもしれない。そんな人たちにとって、「成功者」は神にも等しいのかも分からない。
  根本的な疑問なのだが「成功者」はそうした負け犬どもを先導するのではなく、あくまでも生活の糧にしているということに、気づく必要はないのだろうか?  もちろん、僕らは愚かだからこそ金を回すのであって、成功者も別の分野では愚かに違いないだろう。僕は愚かさを否定するつもりはないが、神格化や鵜呑みにできてしまう自己の弱さに疑念が生じてならない。いわゆるファンは気持ち悪いというやつだ。
  誤解されないでもらいたいのは、この愚かさはサブカルクソ系統だけではなく、あらゆる分野にいるということ、また、個々人の問題に過ぎないということだ。作品の楽しみ方は諸々で良いのだろうが、愚かさで売れるならよりそれを前面に押し出すしかないだろうし、そうなればもはや作品としての技巧さえも廃れてしまうかもしれない。

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