思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

『帰宅前後』について

2018-08-22 08:05:52 | 文章
梶井の習作に『帰宅前後』という作品がある。これがどうも読みづらく面白くない。
  下手な小説から学べるものは多い。何故この作品はつまらないのかを考えることで、結果的に自分が面白いと感じられる面を再認識することができる。書く側からすれば、自分の信条を認識できるとでも言えるだろうか。
  『帰宅前後』は放蕩の限りを尽くした民哉が主人公だが、前半部はその母お兼を中心に据えて家庭の事情を告白する。これがまた心底どうでもよい。人様の家庭を聞いたところで、どこの家庭にだって大抵は問題のあるものだと思えてならないので、これが特別酷い環境だなどとは思えないのだ。エンタメ系の虚構に浸りすぎた方は、漠然と「家庭とは幸せなもの」などと自然と考えがちかもしれないが、どうしても家庭は親が権力を持つ以上、不条理からは逃れられない。この不条理との折り合いをどうするかが問題なのであって、不幸の紹介をしたところで物語は何も進んでいない。
  僕は誰しも何らかの不条理を経験することで、少しずつ精神的な成長が果たされると考えている。これは作品そのもののテーマに違いないが、見方を変えれば、不条理の肯定となっている。それはすなわち、人間の肯定とも言えるだろう。感情ほど不安定なものはないだろうし、それに伴う他者への不条理は、時に怒りやら悲しみやら、その逆に喜びやら何やらも与えてくれるかもしれない。何にしても、この訳の分からなさ、論理やら合理やらにはなり切れない、というのが最も面白いところだろう。
  どうも若い人は「幸せな家庭」を想像をしがちなのかもしれない。その想像の材料がアニメーションなどの可能性があることが、僕は少し疑問を抱いている。作品にはテンポというのがある。例えば、プリキュアで「両親ともに浮気していた」なんて設定が入れられてしまったら、もう明るい話にはなりそうにない。ある程度の折り合いをつけるまでの話も長いだろうし、それを軸にしてしまうと低年齢向けではなくなってしまうだろう。まどか☆マギカになるわけだ。
  そう考えると、虚構はどこに軸を置くかで、リアリティの高低を作る必要があるものらしい。『帰宅前後』はどうもこの軸が不安定だ。結局やりたいことが、放蕩の罪の告白以上の要素を持ち得ない。そうなると、この作品は自分や身内(特に母なのだろう)に読まれることを想定したものと考えられる。どうもつまらない理由はここにあるらしい。これは学生の作品にも見られる兆候だ。
  それにしても面白いのは、このつまらない点は『檸檬』以降では影を潜めることだ。梶井本人もこうした作品への意識は相当高かったのだと思えてならない。人に読ませられるものとそうでないものとの区別がつけられたということかもしれない。
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