思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

監視社会

2018-06-23 02:22:12 | 文章
どうも最近疲れからか、元々不安定な自律神経が、より不安定になってきた。この疲れは実生活上の些細なことに過ぎないことは分かりつつも、日々、ネット上に晒される不思議な人々への恐怖心も相まっているかもしれない。
  統合失調ほどの妄想癖はないが、どうも監視社会な印象が強まっている気がしてならない。ネットリテラシーと言えばいいだろうか。具体例を挙げると、不愉快な思いをしたから対象を撮影しSNSに投稿する、ということが簡単に出来てしまう人が着実に増えているような気がしてならない。これは勿論、悪目立ちは印象に残る、程度の話だと信じていたいものだが、ネット上に平然と自分の写真などを公開できる人々が多いことを考えると、案外そうでもないのかもしれない。
  社会の中で自分の価値を見出す必要がある、と若い世代は考えているのかもしれない。この監視にしても、同調を求める働きがあるわけで、根本は人からの注目を浴びること以上の理由はないだろう。実際、犯罪であれば警察に訴えれば良いことで、その規模のものでなければ流せば良い。「晒す」という行為は、「正義の鉄槌」なんて表現と似ている。少年漫画の現実主義の悪役を倒す理想主義の主人公、そんな構図か?  そういえば、何とかの流儀という漫画があった。あれと似ているように思う。
  どうも監視の先には「平坦化」があるような気がしてならない。仮に監視も承認欲求を満たす一要素でしかないとすれば、個性や才能に固執する学生たちも無個性でしかないことを暗に仄めかしているような気もする。つまり、「自分には才能がある」「認めさせたい」「注目を浴びたい」そのような考えを多くの人が抱いているとすれば、その考え自体が何の個性にもなり得ないということだ。となると、こうした方々は身内同士を褒め合ったり罵り合ったりして、ごっこ遊び的な個性を獲得しようとするのだろう。「小説家」なんて良いごっこ遊びにならないかね。
  それにしても、資本のふりをした共産というのか。社会的に成功を収めていない方(もちろんこれはあくまでも当人の精神に依存するもので、こうすれば成功だという基準はない)からすれば、世の中は随分共産的なのかもしれない。
  改めて生き方を考える必要がある、と考えれば、これほど文学に向いた時代もないのかもしれない。