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石井のSF書評 第7回「ユートピア」

2006-08-31 22:36:51 | 石井のSF書評
16世紀、イギリスの作家、トマス・モアの描いた、数あるユートピア物語の先駆け。ユートピアはトマス・モアの造語であり、ギリシア語のoutopos(ouは否定、toposは場所)を語源にしている。これは「どこにもない場所」という意味であり、トマス・モアは架空の理想郷としてユートピア国を描いた。
本書では、ユートピア国の、政治、風俗、文化、教育、経済などについてことこまかに書かれているが、内容は、「成功した社会主義」といえるものである。
ユートピア国では社会の構成員全体で、生産と配分を共有することにより、需要と供給が常に最善の状態で保たれているがゆえに、無駄な生産、労働の必要がなく、豊かな社会が滞りなく営まれている。だが、ここに描かれている、ユートピア国の国民は、美徳のかたまりのような人々で、奢らず、怠けず、欲をかかず、ただひたむきに生産にはげみ、日々の暮らしを送ることそのものに喜びを感じるという、まったくもって理想的な社会主義の構成員として描かれており、トマス・モアの論じる、様々な無駄がなく、競争のない、経済活動などの成り立ちは、この理想的な人々の「善の特質」に、最終的にはゆだねられているにすぎず、現在の観点から読んでいくと、まったくの夢物語としてうつらざるを得ない。
本書ではじめて示された、架空の国家の姿を通して、現実の社会を風刺するという手法は「ユートピア文学」というひとつのジャンルとして確立され、「アンチ・ユートピア(ディストピア)文学」も含め、現在にいたるまで、数多くの物語が描かれている。

原題:「Utopia」(1516)
著者:トマス・モア(1478-1535)

(C)岩波書店

石井のSF書評 第6回「ユートピアだより」

2006-08-30 22:10:09 | 石井のSF書評
詩人、工芸家、装丁作家、装飾デザイナーとして有名なウィリアム・モリスのユートピア物語。
ウィリアム・モリス本人を思わせる主人公が、ある朝目を覚ますと、そこは200年後(21世紀)のロンドンであり、そこは人々が喜びのもとに労働を行う、工芸家、芸術家たちのユートピアであった。機械産業文明は捨て去られ、工芸家の手による、手作りの建築物や工芸品のみに価値があるとされ、19世紀当時にすでに、工場排水によってよどみきっていたテムズ川の流れは澄んだものになっていた。
その世界における社会の成り立ちは「成功した社会主義」といえるもので、そこにはもはや、通貨は存在せず、驚くべきことにお互いがお互いに必要なものを提供しあうことによって(物々交換の意ではなく、人々は必要なものを必要なときに必要なだけ、わけてもらえるという構造)人々の生活は成り立っていた。それは、人々が、野良仕事であれば野良仕事、学問であれば学問と、それぞれに好きなことを好きなときに好きなだけ働いているだけで、社会活動が滞りなく営まれているという、SFというよりも、むしろ夢物語、ファンタジーと考えたほうが良い社会構成である。
その社会で人々は都市部に集中してあくせくと働くのではなく、農村部に適度に散らばって済み、各々が中世の農村のような生活をしており、現在のアメリカ、ペンシルバニア州やオハイオ州に暮らす、アーミッシュたちの生活を想起させる。
本書は手工芸を愛する、工芸家としてのウィリアム・モリスが、イギリスの機械万能主義への批判をこめて描かれているが、結末が主人公が「夢を見ていたと感じる」ことから、モリスの夢想がまさに夢物語にすぎないというアイロニーとなっていると感じる。

原題:「News from Nowhere」(1890)
著者:ウィリアム・モリス(1834-1896)
(C)岩波書店

石井のSF書評 第5回「ガリバー旅行記」

2006-08-29 11:25:43 | 石井のSF書評
イギリス人、ジョナサン・スフィフトが18世紀に描いた、子供の頃に誰しも一度は見聞きしたことがあるであろう、ユートピア物語。
小人国(リリパット国)、大人国(ブロブディンナグ国)、ラピュータまでは、童話によく登場するが、その後の、学者の国バルニバービ、霊能力者の国グラブダブドリップ、不死の国ラグナグ、日本、馬の国フウイヌムと、その続きにはまだ多くの物語がある。
なかでも、馬の国フウイヌム国渡航記は、全編の中で最も多くの文章量で描かれている。(本編424ページ中、120ページ。最も短い、日本への渡航記はわずか5ページ)
馬の国には、知的で高貴な精神を持つ、馬の姿をしたフウイヌムと、人間の姿をした野卑で下賎の人獣、ヤフーが存在し、ヤフー達はフウイヌムの家畜として、掘ったて小屋で泥水を飲んでくらしている。フウイヌムの特質を、人間の中で最も優れた気質、美徳を兼ねた者よりも高次のものとすることで、野蛮で協調することを知らず、ずる賢く、意地が悪く、陰険で復讐心に富み、体は強くて頑丈なくせに臆病であり、そのために傲慢で卑屈で残酷という、おおよそ悪徳のかたまりのような、本能のままに生きるヤフーを、人間の風刺として描いている。
ガリバーはヤフーと同じ容貌を持ち、精神においても、高貴なフウイヌムよりも野蛮なヤフーに近い特質が自分にあることを実感し、フウイヌムの一員となり、この国で一生を送りたいと考えるが、ガリバーを、毛色の違ったヤフーといった程度にしか認識しなかった多くのフウイヌムにより、追放されてしまう。
ここで出てくる「ヤフー」とは、検索サイト、「Yahoo!」の語源であり、開発者のジェリー・ヤンとデービッド・ファイロは、この名称を、「Yhaoo」がインターネット利用者に変わって、奴隷のごとく奉仕するという意味合いで名付けている。


原題:GULLIVER'S TRAVELS(1726)
著者:ジョナサン・スウィフト(1667-1745)
(C)岩波書店

石井のSF書評 第4回「宇宙・肉体・悪魔~理性的精神の敵について」

2006-08-28 10:16:06 | 石井のSF書評
イギリスの物理学者、バナール若干27歳の時の論文。人類の未来を、「宇宙開発」「肉体の可能性」「創造的思考のありかた(それをおびやかすものとして、「悪魔」と称している)」について、考察をした学術論文である。しかしあまりにも先鋭的な思想のためにSFとして分類されることも多い。
スペースコロニー、テラフォーミング(惑星改造)、サイボーグ(改造人間)、精神のダウンロード、電子的ネットワーク上に構築される生命など、後のSFで用いられる多くの要素について、1929年当時に詳細に言及している。
中でもスペースコロニーの概念は1974年にG.K.オニール博士らのグループが発表したのがはじまりだと思われているが(TVアニメ「起動戦士ガンダム」におけるサンライズ公式宇宙世紀年表の中でそのように記されていた(現在は実際の史実になぞった部分の年表の記述は削除されている)ことがそのことの大きな要因ではないかと感じる)最初の発案者が実はバナールであるという事実に本書の重要性があるが、現在絶版であることが惜しまれる。
また、邦訳では改造人間のことを「サイボーグ」と記しているが、「サイボーグ」の語源はサイバネティック・オーガニズムであり、「サイバネティッ=サイバネティックス」という言葉は、1949年にアメリカの数学者ノーバート・ウィーナーが、「有機物と無機物の間(例えば動物と機械)など、異なる要素を結ぶ、通信と制御(フィードバッック)の理論」という意味合いで使用するまでは、こんにち、「サイバー」という言葉で浸透しているような意味では用いられていなかったので、
1929年に発刊した本書の訳文としては、単に「改造人間」と表記しておくほうが、原書の意味合いと時系列を考えれば適切であると感じる。

原題:「THE WORLD,THE FRESH AND THE DEVIL-An Enquiry into the Future of the Three Enemies of the Rational Soul」(1929)
著者:J.D.バナール1901-1971

石井のSF書評 第3回「未来のイブ」

2006-08-27 20:23:06 | 石井のSF書評
著者は、詩人ボードレールに認められたフランスの作家であり、名門貴族の末裔でもある。本作はアンドロイドという言葉がはじめて提示された作品。出版されたのが1886年であるから、カレル・チャペックが戯曲「R.U.R」(ロッサム ユニバーサル ロボット会社)において、強制労働を意味するチェコ語のrobotaを元に「ロボット」という
言葉を作り出したのが1920年であるから、それよりも34年も早く、アンドロイドという言葉がつくられていたことになる。
ちなみに厳密には「アンドロイド」は、男性型人造人間をさし、女性型は「ガイノイド」と称する
(ロボット、人造人間の起源を「オートマトン」に重ね合わせるとするならば、ヨーロッパにおいて14世紀ころからからくり人形として現実に精巧なものが作られている。)

主人公のエワルドという青年貴族が、絶世の美女である自分の恋人、アリシヤ・クラリーの、外見とはかけ離れた、低俗で下劣な性格、特質に悩んでいたところへ、希代の発明家エジソン(かの「メンロパークの魔術師」トーマス・エジソン)から、「完璧な理想の女性」を作り出すことを提案する。

本作は全編の八割ほどを、エジソンの作り出す、「人造人間ハダリー」の機構の説明とその機能の説明に費やすという、驚くべき構成である。実際に19世紀当時で予想し得た限界の技術がそこではことこまかに語られている。ハダリーは電気と機械で動き、蓄音機に使われる真鍮製の筒に、言葉や動作のデータを記録された機械人形であるが、外見は特殊な樹脂で覆われ、毛髪や体臭にいたるまで人工的につくられ、人間と区別がつかないという。
今日、一般的にアンドロイドは機械然とした「ロボット」とは異なり、人間に限りなく近い外見や機能を持つことが前提とされており、SF作品の中では、有機物で構成されたものも多い。チャペックの「R.U.R」に登場する工場勤務のロボット達は、機械ではなく、生体として構成された、人造人間として描かれているので、「ロボット」と「アンドロイド」は結果的に意味が入れ違ったかたちとなる。
作品中、エワルドは人間でないもの、いってみれば怪物に対して、愛をいだくことができるのか、仮にもしいだくことができたとしても、それは背徳的、非倫理的な行為なのではないかと、エジソンをいぶかるが、完成したハダリーの「完璧な理想の女性」としての姿をまのあたりにし、エジソンの説得により、二人で航海に出る。
しかしながら出航直後の客船の難破でハダリーは海底に沈むこととなり、最後にエワルドからエジソンにあてて電報がうたれるところで物語は完結する。
「ハダリーノコトノミ痛恨に堪ヘズ。 タダコノ幻ノ喪ニ服セム」
この電報に、「幻」とあるが、ここにエジソンの全精力をかけた「人造人間ハダリー」はその力を発揮することなく、エワルドにとっては、青春の幻影としての存在としかなることができなかったことを意味していると考える。

また、2004年に公開された劇場アニメ「イノセンス」(士郎正宗原作、押井守監督)
に登場するロクスソルス社のガイノイドが「ハダリ」である。

原題:L'EVE FUTURE(1886)
著者:ヴィリエ・ド・リラダン伯爵(1838-1889)
(C)東京創元社

石井のSF書評 第2回「1984年」

2006-08-26 21:29:05 | 石井のSF書評
イギリスの哲学者、ジョージ・オーウェルの、アンチユートピア小説(もしくはディストピア小説とも呼ばれる)。
本書と、ザミャーチンの「われら」、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」の三作が、「三大アンチユートピア小説」と称されている。
舞台は世界大戦後に世界が大きく3つの巨大国家(南北アメリカとイギリスで構成されるオセアニア、ヨーロッパ・ロシアで
構成されるユーラシア、アジアで構成されるイースタシア)に分割された社会における、オセアニアに属する旧イギリス(1949年当時に予想した、1984年の世界)。INGSOC(English Socialism=イギリス社会主義)の支配する荒廃した世界で、主人公ウィンストン・スミスが、言論や思想、職業、衣服、住居、経済、性など社会のあらゆることに対して、全体主義的統制のとられた世界で、社会のなりたちに疑問を感じ、「日記を書く」という反社会的行為を通して、ささやかな抵抗をこころみるが、思想犯としてとらえられ、拷問の末に、なにごとも考える事のできない廃人として、釈放される。

この作品の中で、特筆すべきは、国家を司る、党(INGSOC)の、
「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」という3つのスローガンの存在である。

「戦争は平和である」の意味とは、人類の歴史は常に戦争の繰り返しであり、そのなかにおける平和とは戦争の準備期間にすぎない。
世界が3つの巨大国家に集約されたこの世界においては、3カ国がお互いに和合しあう、偽りの、容易に瓦解する平和を選ぶよりも、
3カ国がお互いに、均衡した力で、戦争を続けることこそが、真の意味での「平和」であるとする思想。
その際の一般市民は、すべて、兵員もしくは兵器製造要員であり、永遠に続く戦争と永遠に続く需要によって、盲目的にひたすら機械のように働き続けることを強制されるのだが、生産された兵器は、国境の境界線上における終わりのない、終わることを目的としていない戦闘行為に空費されていく。勝敗を決するための戦争ではなく、戦争そのものが目的なのである。
そのことを知っていいるのは、党の上層部の一握りの人間のみであり、そこに支配の構図がある。人々はただ経済を動かすためだけにひたすらに無意味な労働を強いられている。

「自由は屈従である」の意味とは、人間は一人だけ、一個の存在であれば常に失敗や敗北をあじわうが、自己を脱却し、自分の存在が「党」という集合体であるということになれば、そこにはもはや個は存在せず、無限の可能性をもった、全能の存在となり得、そこにはじめて、真の意味での自由があるという思想。

「無知は力である」の意味とは、前述の2つのスローガンにも言えることであるが、思考する力を持たないこと、知ることができないことは結果的に、
迷いや反感を生み出す土壌を持たないがために、無知であることが美徳であり、力であるとする思想。
そのことを実践するために党の統制下では、新語法(ニュースピーク)と呼ばれる、異端の思想をすることができないようにするために人為的に
作られた簡略英語を使うことが義務づけられている。
これは、文字の意味、文法の必要以上の簡略化と単語の同意語の排除、単語そのものの省略、意味の排除によって、ものごとを考える力を失わせることに目的がある。
簡単な例で言えば、党の名称、INGSOCは、もとの意味でいえば、English Socialism=イギリス社会主義であり、そのままの意味では、当然社会主義を連想させるが、
はじめから、INGSOCという名称のみであれば、そこにまつわる意味は想起されないというしくみである。
これを数世代にわたって続けることによって、人々はものごとを考える力を徐々に失っていき、当然、党に反抗する力をも失っていくというものである。

この小説は、当時のロシアをはじめとする社会主義思想にたいする風刺と痛烈な批判であるが、それだけにとどまらず、その後のアンチユートピア小説や映像作品などに多大な影響を与えている。
AKIRAの作者として有名な大友克洋の劇場アニメ作品「MEMORIES」に含まれる、「大砲の街」という作品などはその際たる例であると言える。
また、この小説は、「1984」というタイトルで映画化もされており、ダイジェスト的構成ながらも、党の集会で群衆が、敵国指導者(党の設定した、そもそも架空の敵)の名を叫び罵倒するシーンなどが印象深く、ダイジェスト的構成ながらも、世界観をよく表現した秀逸な出来であると感じる。

原題:「Nineteen Eighty-Four 」1949
著者:ジョージ・オーウェル(1903-1950)

(C)早川書店

石井のSF書評 第1回「エレホン」

2006-08-25 15:07:35 | 石井のSF書評
詩人サミュエル・バトラーの描いたユートピア物語。
舞台は十九世紀、とあるイギリスの植民地における人跡未踏の架空国家を訪れた主人公の見聞録。
表題の「エレホン」は「erewhon」と綴り、英語の「no where」を逆に読んだ造語である。
「no where」つまり「どこでもない」土地という名称は、十六世紀イギリスの作家、トマス・モアの著作「ユートピア」が、ラテン語の「どこにもない場所」という意味を持つ造語であることから、この物語が架空の理想国家を描いたユートピア文学の一つであることがみてとれる。
ユートピア文学は架空の国家における政治形態、社会のなりたち、文化や性にまつわる解説がその物語の大半をしめる場合が多く、この「エレホン」もその例にもれず前半から中盤まで、ことこまかに「エレホン人」の生活様式が語られている。
荷馬車よりも複雑な構造を有する機械を持たず、牧歌的ユートピアを思わせる世界「エレホン国」であるが、かつてはイギリスに匹敵するかあるいはそれ以上の技術力、科学力を有していた。そのような科学水準の後退は、「発明から271年を経過しない機械をすべて放逐する」という革命によるものであり、その実態が語られるにつれ、この物語がありがちなユートピア物語でないことが感じ取られてくる。
革命の先導者の持つ論拠は、以下の通りである。
人間の作り出した道具、機械がこん棒や手斧から、ネジ、歯車、やがては時計などの複雑な機構を持つものとなり、ついには蒸気機関の発明にいたった経緯は、人類の進化の歴史と共通点が多い。つまりは、バクテリアなどの単細胞生物から始まり、多細胞生物から脊椎動物へ、魚類からは虫類、ほ乳類、人類へと至った経緯が、「より単純なものから複雑なものへ」といった変化の構図において相似であると考えられる。したがって、現在の蒸気機関もやがてはさらに複雑な構造を持つにいたり、極限的には創造主たる人類の手を離れ、自己増殖、自己進化をはじめ、人類をおびやかす存在となると、革命の先導者はそう考えたのである。
これは単に、ハリウッド映画「ターミネーター」のように、高度に発展した人口知能を有するロボットが人類社会を滅亡においやるといったこととは根本的に異なり、ここで論じられている問題は、社会を大局的視点でみた場合のシステムに関するものである。
例えば、自動織機が機(はた)をおっている工場を例にとった場合、職工が自動織機を操作し、自動織機が織物を生産する。この自動織機をくみ上げたのは人間ではあるが、最終生産物である織物を作ったのは自動織機である。よってここに、単純な構図ながらも、人間ー機械混成系(システムの構成要素として、人間と機械がともにくみこまれている状態)による生産システムが生まれたこととなる。機械を動かすべく人間が働くということは、人間が機械を使用するのか、はたまた生産システム全体としてとらえた場合の機械に人間が使役されているのか、その関係性があやふやなものとなるばかりか、捉え方によっては、人間が、織物を生み出すための部品の一部と考えられなくもない。
これが自動織機の場合は、介在する機械の数も少なく構造も単純であり、自動織機を操作する職工からみても、自分つまり「人間」が織物を作っていると感じ取れるかもしれない。しかし、これが前述のバクテリアから人間にいたる進化のように、個々の機械そのものおよびシステム全体が、より複雑さを増し続けた場合、人間が機械を中心としたシステムの中の、構成要素のひとつであることを否定できない理由があるだろうか。
このような概念は、カール・マルクスが1867年(本書出版の5年前)資本論の中で、述べている。
「機械の進化、人間の隷属」という概念への危惧は、工業を主軸とした経済発展を続ける自国(イギリス)への社会風刺であるのだが、この本が書かれた十九世紀当時よりも現在においては、それをより理解することができ、その危惧は現実感をもってきている。

書名:Erewhon ≪英語≫(1872)
著者:Samuel Butler (1835-1902)

(C)岩波書店