ウィキペディアで、キリストの磔刑というキーワードで検索をすると、
芸術・作品の項目では「文学では、ノーベル文学賞作家、ラーゲルクヴィスト著の『バラバ』が有名である」という記述があります。
この小説は、過越祭の赦免を受けて、民意の元にその罪を免れた男、
バラバの一生を描いた物語です。
バラバは助かり、磔にされたのは痩せて弱弱しい男。
何かしらその痩せた男に不思議なところを感じていたバラバは、なぜだか判らないが、
十字架を曳きずる彼のあとをつけ、磔刑を見つめる。
何時間も。
彼は体力がなさそうなのに、長いこと苦しんだ。
すると突然闇が訪れた。
そして暗黒の中で大声で叫んだ。
「神よ、わが神よ、なぜ御身は私をお棄てになったか」
磔になったあの男は、救世主(メシア)だという。
ー救世主だって?・・・違う、あの男は救世主ではないんだ
バラバは、盗賊であり、自分の出生で母は死に、
父親殺しもしているという存在自体が呪われた極悪な男。
ところが、キリストに代わって赦免されたことによって、以前とはなにかが変わり、山にも戻らず、イェルサレムに残ったままキリストの説く教えを知ろうとします。
でも、その教えによって、信仰に目覚めることはありません。
ーあの連中のような、彼の下に立つ奴隷ではない!
溜息をつきながら彼に祈る人たちの仲間ではない。
バラバはそれ以降も信仰を持ちたいと思ったこともありましたが、
真の信仰を持つことはありませんでした。
しかし、それがバラバの悲劇なのでしょうか。
現代人の感覚からいけば、奇跡を信じないバラバはごく普通ではありませんか。
キリストの奇跡により、死から復活した男に会ったとき、
あれは正しいことではなかったというのも、とても真っ当な感想だと思います。
本書のバラバの行動には、作意的なものをを感じます。
刑場についていったこと、キリストの墓の前で復活を待ったこと、奇跡で蘇った男と会ったこと、兎唇女の石刑場で彼女の死の間際にその場にいたこと、サハクに真実を語らなかったこと、サハクを裏切ってしまったこと、そして、ローマの街に火を付けて回ったこと。
バラバもラーゲルクヴィストの作品の中にみられる、
神に選ばれた者の一人なのではないでしょうか。
そして、バラバの本当の悲劇は、愛を理解し、
受け入れることができなかったことにあると思います。
兎唇女の遺体を死産した子供と共に葬ったときも、自嘲気味に笑ってみせ、バラバと共に鉄鎖で繋がれていたサハクが磔で死んだときも、自分がなぜ泣いたのかがわからないようでした。
ご存知のとおり、キリストの教えとは「人を愛せよ」なのです。
愛すること、愛されること、信頼すること、信頼されることを理解できないバラバが、真の信仰を持てなかったのは当然ではありませんか。
-お前さんに委ねるよ、俺の魂を
バラバの最後の言葉は、いったい誰に向かった投げかけなのでしょう。
この言葉は、最後にはバラバも主を受け入れたと見えなくもないです。
私はそれ以前の<暗闇の中へ、まるでそれに話しかけるように言った>という部分の<暗闇>が重要なポイントではないかと思います。
「バラバ」は「刑吏」「こびと」とともに、ひとつのシリーズとされており、
また、「巫女」との関連性も感じます。
「巫女」は、「アハスヴェルスの死」に続き「海上の巡礼」「聖地」へとつながります。
ここでは、神という存在が中心になるわけですが、ラーゲルクヴィストは神というものをどのように考えていたのでしょう。
「刑吏」の翻訳者、山口氏から送っていただいた「ラーゲルクヴィストの世界」という近代文学1956年7月号に掲載された評論に、ラーゲルクヴィストが1933年にエジプトから近東、ギリシア方面を旅行して、その印象をもとにして書いた随筆集「固めた拳」の一篇『デルフィの奇跡』から、一部が訳されていました。
何人も辿ることのできない根、我々はただそれが下の方へ、生命と自然の秘密の深淵の中へ伸びていることだけを知っている根から、人間の樹はその頂のために養分を吸う。
そしてこの深遠は混沌として、危険に満ちているが、
同時に我々の本性を発酵させるとあります。
もしかしたら、ラーゲルクヴィストは、その深遠を神に置き換えているのかもしれません。
そうすると、「アハスヴェルスの死」も別の読み方ができそうです。
それは、また今度改めて。
*本文中でも触れましたが、本書「バラバ」は「刑吏」「こびと」の翻訳者山口琢磨氏から借り受けました。また、「ラーゲルクヴィストの世界」という評論も送ってくださり、大変参考にさせていただいています。心からお礼を申し上げます。
バラバ
芸術・作品の項目では「文学では、ノーベル文学賞作家、ラーゲルクヴィスト著の『バラバ』が有名である」という記述があります。
この小説は、過越祭の赦免を受けて、民意の元にその罪を免れた男、
バラバの一生を描いた物語です。
バラバは助かり、磔にされたのは痩せて弱弱しい男。
何かしらその痩せた男に不思議なところを感じていたバラバは、なぜだか判らないが、
十字架を曳きずる彼のあとをつけ、磔刑を見つめる。
何時間も。
彼は体力がなさそうなのに、長いこと苦しんだ。
すると突然闇が訪れた。
そして暗黒の中で大声で叫んだ。
「神よ、わが神よ、なぜ御身は私をお棄てになったか」
磔になったあの男は、救世主(メシア)だという。
ー救世主だって?・・・違う、あの男は救世主ではないんだ
バラバは、盗賊であり、自分の出生で母は死に、
父親殺しもしているという存在自体が呪われた極悪な男。
ところが、キリストに代わって赦免されたことによって、以前とはなにかが変わり、山にも戻らず、イェルサレムに残ったままキリストの説く教えを知ろうとします。
でも、その教えによって、信仰に目覚めることはありません。
ーあの連中のような、彼の下に立つ奴隷ではない!
溜息をつきながら彼に祈る人たちの仲間ではない。
バラバはそれ以降も信仰を持ちたいと思ったこともありましたが、
真の信仰を持つことはありませんでした。
しかし、それがバラバの悲劇なのでしょうか。
現代人の感覚からいけば、奇跡を信じないバラバはごく普通ではありませんか。
キリストの奇跡により、死から復活した男に会ったとき、
あれは正しいことではなかったというのも、とても真っ当な感想だと思います。
本書のバラバの行動には、作意的なものをを感じます。
刑場についていったこと、キリストの墓の前で復活を待ったこと、奇跡で蘇った男と会ったこと、兎唇女の石刑場で彼女の死の間際にその場にいたこと、サハクに真実を語らなかったこと、サハクを裏切ってしまったこと、そして、ローマの街に火を付けて回ったこと。
バラバもラーゲルクヴィストの作品の中にみられる、
神に選ばれた者の一人なのではないでしょうか。
そして、バラバの本当の悲劇は、愛を理解し、
受け入れることができなかったことにあると思います。
兎唇女の遺体を死産した子供と共に葬ったときも、自嘲気味に笑ってみせ、バラバと共に鉄鎖で繋がれていたサハクが磔で死んだときも、自分がなぜ泣いたのかがわからないようでした。
ご存知のとおり、キリストの教えとは「人を愛せよ」なのです。
愛すること、愛されること、信頼すること、信頼されることを理解できないバラバが、真の信仰を持てなかったのは当然ではありませんか。
-お前さんに委ねるよ、俺の魂を
バラバの最後の言葉は、いったい誰に向かった投げかけなのでしょう。
この言葉は、最後にはバラバも主を受け入れたと見えなくもないです。
私はそれ以前の<暗闇の中へ、まるでそれに話しかけるように言った>という部分の<暗闇>が重要なポイントではないかと思います。
「バラバ」は「刑吏」「こびと」とともに、ひとつのシリーズとされており、
また、「巫女」との関連性も感じます。
「巫女」は、「アハスヴェルスの死」に続き「海上の巡礼」「聖地」へとつながります。
ここでは、神という存在が中心になるわけですが、ラーゲルクヴィストは神というものをどのように考えていたのでしょう。
「刑吏」の翻訳者、山口氏から送っていただいた「ラーゲルクヴィストの世界」という近代文学1956年7月号に掲載された評論に、ラーゲルクヴィストが1933年にエジプトから近東、ギリシア方面を旅行して、その印象をもとにして書いた随筆集「固めた拳」の一篇『デルフィの奇跡』から、一部が訳されていました。
何人も辿ることのできない根、我々はただそれが下の方へ、生命と自然の秘密の深淵の中へ伸びていることだけを知っている根から、人間の樹はその頂のために養分を吸う。
そしてこの深遠は混沌として、危険に満ちているが、
同時に我々の本性を発酵させるとあります。
もしかしたら、ラーゲルクヴィストは、その深遠を神に置き換えているのかもしれません。
そうすると、「アハスヴェルスの死」も別の読み方ができそうです。
それは、また今度改めて。
*本文中でも触れましたが、本書「バラバ」は「刑吏」「こびと」の翻訳者山口琢磨氏から借り受けました。また、「ラーゲルクヴィストの世界」という評論も送ってくださり、大変参考にさせていただいています。心からお礼を申し上げます。
バラバ
というかその映画の原作がラーゲル・クヴィストだった!と結びついたのは、たった今、くろにゃんこさんの記事を読んだからなんですけど(^^;)
私は若い頃映画「バラバ」を観てキリスト教に惹かれたので、ぜひこの本読んでみたいです。
・・・が入手は難しそうですね・・・・
「バラバ」をお読みになったんですね!
>もしかしたら、ラーゲルクヴィストは、その深遠を神に置き換えているのかも
とのことですが、私もなんとなくそんな感じがします。
あ、でも、「アハスヴェルスの死」を思い出すと、神よりもさらに向う側にあるものを指しているような気もしますね。
私もまた「バラバ」を読み返して、考え直そうと思います!
映画化もされていますが、有名な戯曲家でもあったラーゲルクヴィストが自ら戯曲化し、上演される予定(1953年当時)とあとがきにはありました。
心に訴えられる、あのセリフやこのセリフを舞台上で演じられるのかと思うとなぜか興奮してしまう私です。
映画も面白そうですね。
映画でキリストの磔刑といえば「パッション」ですが、まだ観ていないのですよ。
観なくては。
「バラバ」もしかしたら図書館にあるかもです。
三島市の図書館にはなかったけどさっ。
そうなのですよ。
今の時点では、まだなんともいえませんが、「巫女」と「アハスヴェルスの死」では、微妙に何かが違いますよね。
それと、ラーゲルクヴィストの作品が二者対立の構図であるとするならば、聖なるものとそれを阻む神という存在は、相反するようでひとつなのかもしれないと思ったのです。
明日、図書館に行ってもう一度「ノーベル文学賞全集」を借りてこようと思っています。
確か、作家の概要が詳しく載っていたはず。
もう少しお勉強してみます。
くろにゃんこさんがお読みになった『バラバ』も1953年ものなんですね。
改めて自分の感想を読むとまだまだ読みが浅いなー
と後悔しきりです。聖書やキリスト教関連の書籍他のラーゲルクヴィスト作品を読んで勉強します。『バラバ』は入手困難っぽいのでまた、図書館から借りてきます。「バラバラ」なヤツを。
実はどちらも同じところに根があるのではないか、というのが今の私の受ける感触です。
そして、ラーゲルクヴィストは「愛」を究極のテーマにしていたのではないかと。
「ノーベル文学賞全集」は借りてきたのですが、やっぱり「巫女」も借りてこなきゃ、と思っています。
考えがまとまったら、記事にしますね。
亜流の救済です。
そして亜流を作り出すものとその排他性への批判
なのです。
<暗闇の中へ、まるでそれに話しかけるように言った>
皆さんは、どのように感じますか?
バラバの容貌をもう一度確認して下さい。
そしてエリヤの存在。
これ以上は、言えないですが、草屋郷守氏の説が、
最も当てはまるようでしょう。
お問合せは⇒ airpencil@yahoo.co.jp
一つの本に、幾つかの解釈があっていいし、これが正しいというものは存在しないのではないでしょうか。
著者の意図したもの以上のものを読み取ることが可能な場合もあるだろうし、なにかを得ることが出来なくても、本の世界にどっぷりとつかるという楽しさを味わうのが本来の読書の楽しみであるように考えています。
草屋郷守氏の説というのは、推し量ることも難しい宗教的な考察なのではないかと思いますが(違っていたらごめんなさい)、私に理解できるかどうか。
私が古本で買ったのは1965年ものでした。
古い漢字が使われていてとても読みにくかったです。
復刊しないんですかねえ。
常用漢字で読みやすいですよ。
バラバは人気もありそうなので、復刊があってもおかしくなさそうですけどね。
ついでに「アハスヴェルスの死」「海上巡礼」の出版も是非!
なんてね。