「未来のイヴ」の記事を書いたあとに、ほかの人の書いたレビューを見に行ったら、いくつかディック的であるというものがありました。
うん?そうかなぁと思っていたんですけれど、「火星のタイムスリップ」はちょっと似ているかも。
ストーリーの展開が、前半はエピソードの積み重ねで、後半になってやっと小説の全体像が見えてくるっていうところが。
時は1994年。
人類は、火星に移住しています。
2006年の現在からみれば過去になり、また、火星には先住民族がいるらしいことから、この世界はリアルではないと見るのが妥当です。
そうでもないと、納得できない事柄があります。
この物語の核をなす部分、自閉症や分裂症に関してです。
自閉症、分裂症に詳しいわけではありませんが、ちょっと違和感を感じます。
現実的でないけれど、ところどころでは現実を感じさせるというのがSFの醍醐味ですから、まあ、その点はバッチリなんですが。
火星に先住民族がいて、そこに新たに人類が住み始め、奴隷のように先住民を扱ったり、
なけなしの保護をしてみたりしているところは、
アメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人のようですね。
アメリカ人であるならば、必然的にそのことを思い出すわけで、
先住民族ブリークマンにインディアンのイメージを持つでしょう。
このイメージは、レム『宇宙飛行士ピルクス物語』のなかで言っているように、「人類が、宇宙に進出することになれば、そこは生活の拠点となり、夢や希望は去り、政治取引や銭勘定の場になってしまう」ことと同じで、新天地で新たに出発しようと志すものも、結局は歴史を繰り返すだけに過ぎないことを強調しています。
また、火星の砂漠やブリークマンや新たに火星で生まれた子供たちの特質についてのくだりは、ブラッドベリ「火星年代記」を思わせます。
「火星のタイム・スリップ」という題名からして、古典的なSFにあるようなタイムトラベルものを思い浮かべるかもしれませんが(事実、私はそう思った)、本書の時間の捉え方は、個人の時間感覚に焦点を当てています。
時間感覚というのは、個人によって違いがあるものですよね。
待ち合わせに5分遅れて、5分も遅れてしまったと感じるか、
5分しか遅れなかったと感じるかとか。
集中しているときは、時間が短く感じたりとかしませんか?
現代人は、時計を基準に時間を計り、それに合わせて行動していますが、外界と接触することに困難な自閉症や分裂症の患者にとっての時間とはどういうものなのでしょう。
もし、そこに肉体はあるけれど、時間だけが先行して未来を見ているのだとしたら・・・
彼らのみる未来や本質は、決して気持ちのよいものではありません。
本質は醜悪であり、未来には崩壊が待っています。
おごれるものも久しからず。
専制君主的で悪を平気でなしてきた人物が罰を受け、少しの好意をあたえた人物が不当な死を逃れるところは、なにか教訓めいていますが、因果応報といったところでしょうか。
ディックは自閉症や分裂症の人々のことも、尊敬に値する人間であるとしています。
彼らが逃避していると見るのではなく、自分と戦っている人だと。
ディックは、虐げられている人々や忌み嫌われている人々に、
理解する気持ちがあったのでしょう。
それとも罪の意識でしょうか。
また、スタイナーが自殺に向かう心境は、とても痛ましく、怖いくらいでした。
自殺未遂も度々起こしていたそうなので、真に迫っているのも無理はないですね。
ここでひとつお勉強。
アーニイのところで働いていたブリークマンですけど、あの名前、気になりますよね。
ヘリオガバラス(ヘリオガバルス)といえば、218-222年の間、
ローマを統治したアウレリウス・アントニウスを思い出します。
シャーマンとしては有能だったらしいですが、東洋風の宮廷で乱痴気騒ぎを繰り返し、放蕩の限りを尽くし、東洋風の太陽神(ヘリオガバルス)崇拝をローマに導入しようとしたが失敗。
暗殺され、遺骸は市内を引きずりまわされ、ティベレ川に投げ込まれたという。
暗殺されたとき皇帝は、18歳に満たなかったそうです。
アーニィはアウレリウス・アントニウスってことになりますかね。
火星のタイム・スリップ
火星年代記
うん?そうかなぁと思っていたんですけれど、「火星のタイムスリップ」はちょっと似ているかも。
ストーリーの展開が、前半はエピソードの積み重ねで、後半になってやっと小説の全体像が見えてくるっていうところが。
時は1994年。
人類は、火星に移住しています。
2006年の現在からみれば過去になり、また、火星には先住民族がいるらしいことから、この世界はリアルではないと見るのが妥当です。
そうでもないと、納得できない事柄があります。
この物語の核をなす部分、自閉症や分裂症に関してです。
自閉症、分裂症に詳しいわけではありませんが、ちょっと違和感を感じます。
現実的でないけれど、ところどころでは現実を感じさせるというのがSFの醍醐味ですから、まあ、その点はバッチリなんですが。
火星に先住民族がいて、そこに新たに人類が住み始め、奴隷のように先住民を扱ったり、
なけなしの保護をしてみたりしているところは、
アメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人のようですね。
アメリカ人であるならば、必然的にそのことを思い出すわけで、
先住民族ブリークマンにインディアンのイメージを持つでしょう。
このイメージは、レム『宇宙飛行士ピルクス物語』のなかで言っているように、「人類が、宇宙に進出することになれば、そこは生活の拠点となり、夢や希望は去り、政治取引や銭勘定の場になってしまう」ことと同じで、新天地で新たに出発しようと志すものも、結局は歴史を繰り返すだけに過ぎないことを強調しています。
また、火星の砂漠やブリークマンや新たに火星で生まれた子供たちの特質についてのくだりは、ブラッドベリ「火星年代記」を思わせます。
「火星のタイム・スリップ」という題名からして、古典的なSFにあるようなタイムトラベルものを思い浮かべるかもしれませんが(事実、私はそう思った)、本書の時間の捉え方は、個人の時間感覚に焦点を当てています。
時間感覚というのは、個人によって違いがあるものですよね。
待ち合わせに5分遅れて、5分も遅れてしまったと感じるか、
5分しか遅れなかったと感じるかとか。
集中しているときは、時間が短く感じたりとかしませんか?
現代人は、時計を基準に時間を計り、それに合わせて行動していますが、外界と接触することに困難な自閉症や分裂症の患者にとっての時間とはどういうものなのでしょう。
もし、そこに肉体はあるけれど、時間だけが先行して未来を見ているのだとしたら・・・
彼らのみる未来や本質は、決して気持ちのよいものではありません。
本質は醜悪であり、未来には崩壊が待っています。
おごれるものも久しからず。
専制君主的で悪を平気でなしてきた人物が罰を受け、少しの好意をあたえた人物が不当な死を逃れるところは、なにか教訓めいていますが、因果応報といったところでしょうか。
ディックは自閉症や分裂症の人々のことも、尊敬に値する人間であるとしています。
彼らが逃避していると見るのではなく、自分と戦っている人だと。
ディックは、虐げられている人々や忌み嫌われている人々に、
理解する気持ちがあったのでしょう。
それとも罪の意識でしょうか。
また、スタイナーが自殺に向かう心境は、とても痛ましく、怖いくらいでした。
自殺未遂も度々起こしていたそうなので、真に迫っているのも無理はないですね。
ここでひとつお勉強。
アーニイのところで働いていたブリークマンですけど、あの名前、気になりますよね。
ヘリオガバラス(ヘリオガバルス)といえば、218-222年の間、
ローマを統治したアウレリウス・アントニウスを思い出します。
シャーマンとしては有能だったらしいですが、東洋風の宮廷で乱痴気騒ぎを繰り返し、放蕩の限りを尽くし、東洋風の太陽神(ヘリオガバルス)崇拝をローマに導入しようとしたが失敗。
暗殺され、遺骸は市内を引きずりまわされ、ティベレ川に投げ込まれたという。
暗殺されたとき皇帝は、18歳に満たなかったそうです。
アーニィはアウレリウス・アントニウスってことになりますかね。
火星のタイム・スリップ
火星年代記
ディックは晩年、自身の神秘体験に基づく創作を繰り広げるんですが、そこに古代ローマ帝国にまつわるビジョンなんかがかいま見られます。わかいころからそうした下地がちゃんとあったんだろうと思いますね。
ディックは晩年に純文学を創作しているのですよね。
ふ~ん、古代ローマ帝国にまつわるビジョンかぁ。
「ヴァリス」シリーズなんか、面白そうだから読んでみたいけど、一足飛びにそっちに行くのは反則だから、次は「高い城の男」「偶然世界」あたりを狙っております。
相当込み入っていたという記憶しか残ってませんが,マンフレッドの内部宇宙の気味悪さだけは印象に残っています。
ディックの短編は,まあまあストレートでわかりやすいものが多いので,そっちに流れてしまって,特に後期の長編は敬遠していたくちなので。
「偶然世界」か。懐かしいですねえ。
「虚空の眼」とか初期の作品の方が好きなのは,ディック好きにしては軟弱なのかなあ。
私は、短編に苦手意識があるものですから、ついつい長編に流れがち。
そろそろ短編をと思ってはいるのですが。
「火星のタイム・スリップ」はなんともレビューの書きにくい作品でありました。
ストーリィは積み重ねのあとは、繰り返しが来るし、わざと書いていない部分もある。
「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」よりメッセージがつかみにくいし。
難解ではないけれど、かなりSF的な経験値がないと最後まで読めない作品じゃないかと思います。
私としては、今読んでよかったかな。
若いころでは、多分、読んでも良くわからなかったと思います。
「スクリーンプレイ;ユービック」は読みました?
脚本形式の文芸に興味ある方は、私のブログへいらしてみては?
決して忘れているわけではないんですが。
ガブルとガビッシュというのは、言葉としての意味はあまりないものですよね。
文脈からその意味や雰囲気を感じ取るものだと私は思ってました。
バブル、ラビッシュという単語に当てはめたとしても、前後の文章から感じ取る語感はあまり気持ちのいいものではないような気がします。
禍々しい、醜悪、そんな感じ。
レーゼシナリオというのは初めて聞きました。
私は、本当に素人の、ど素人の人形劇のシナリオを書いているのですが、自分では積極的に戯曲を読んで勉強しようという姿勢はないんです。
うおっ、自分で書いていて恥ずかしくなってきた。
それは、演ずる、上演するという行為に密着しているからです。
もっと大きな野望でも持っていれば別なんでしょうが、そういうことはなく、極めて自己満足に近い。
脚本形式の文芸っていうのは、そういう戯曲とは別のものなんでしょう?
新しい小説のあり方とでも言うんでしょうか。
いまいちつかめていないのですが、面白そうではあります。
「火星のタイムスリップ」は私も大好きな小説なので
コメントさせていただいただけだったのですが。奇遇ですね。
ディックの翻訳(『暗闇のスキャナー』)も手がけた
山形浩生氏が訳した、バロウズの「ダッチ・シュルツ 最期のことば」、D・ジェイムスの「ニグロフォビア」(両方とも、白水社・刊。絶版)などが、シナリオ形式の文芸ですね。映像化とは関係なく書かれたもので、「文体」としてシナリオ形式が選ばれたという感じです。両者とも、出版後に映像化の話があったそうです。「ダッチ・シュルツ~」のほうは極めてマイナーな形で映像化が実現したらしいですね。
きっかけは、どこからかやって来るものなのですね~(遠い目)
「ダッチ・シュルツ」は図書館にありますので、借りてみますね。
しかし、バロウズで検索すると、E・R・バローズが表示されてしまう。
火星シリーズ、図書館にはあんまり置いてないということが分かりました。
かの芥川も昭和2年(自殺直前)に「誘惑」「浅草公園」という二編のレーゼシナリオを書いています。ただこれは、劇映画のシナリオと言うより、シュールな映像作品(←ブニュエルの『アンダルシアの犬』みたいな感じ)を念頭に置いたシナリオですね。二編とも短いです。
そういう意味では、上に書いた「ダッチシュルツ~」「ニグロフォビア」も、一応ストーリーらしきものはあるものの、イメージの連鎖、羅列っていう感じですね。
イメージの羅列ですか。
そういうの、結構好きです。
アトウッド「浮かび上がる」もイメージの立ち上がりを感じとれる小説なのですが、こちらは普通にストーリィがありましたね。
芥川は時々思い立っては図書館で借りてますが、自殺直前のものは読んでいないです。
太宰を読んで、その作品から精神的な危うさを怖いと思う私は、ちょっと躊躇しているといったところです。
芥川の作品は、どれも短いというのが私の印象ですから、図書館に行った折には、手にとってみましょう。