新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

「愚者戦略」で逃げ切ろうとしている安倍晋三

2020年02月03日 12時09分27秒 | 桜を見る会

先週末はネットニュースも見る機会がなかったが、相変わらず国会では安倍晋三の苦し紛れの答弁が続いているようである。
 
NHKテレビでは国会中継を放映しているが、民放テレビは一般のニュース番組での放映は少なく、あったとしても答弁に窮している安倍晋三を映し出すことはまれである。
 
しかし、下記の動画のように分かりやすく編集したニュースは視聴者には伝えられやすい。 
  

       【news23】「桜を見る会」 前夜祭で“新しい”答弁
 
首相『ホテルとの契約は個人』 不記載の合法性を強調
 
     
     
                【朝日新聞DIGITALより】
 
野党合同の追及チームによるヒアリングでは、頑なな答弁に終始している内閣府の官僚たちも、徐々に様々な資料を小出ししているが、そんな内閣府資料の分析によると、安倍晋三と桜を見る会の参加者の増加ぶりは、やはり安倍晋三が突出していることが明らかになっている。
 
【桜】参加増安倍首相突出 長期政権比較【慣行】釈明と矛盾
 
     
             【東京新聞より】
  
疑惑を指摘された張本人がいくら口先だけで「合法性」を主張しても誰も信用しない。
 
国会議員の場合は「公選法」や政治資金規正法に抵触すれば、議員の資格を失うのでまさに死活問題なのである。
 
安倍晋三も己がそのような段階に近づいていきたと感じているようで、こんな禁じ手を使い始めた。
 
安倍政権が前代未聞の禁じ手人事 側近の検事長を定年延長」(日刊ゲンダイ) 
 
 
2月8日に63歳の誕生日を迎える黒川弘務東京高検検事長は本来は2月7日に定年退官する予定が、安倍政権は1月31日、定年を8月7日まで半年間、延長することを閣議決定したという。
 
検察庁法は、検事総長の定年を65歳、その他の検察官の定年は63歳と定めており、さらに国家公務員法は、1年を超えない範囲での勤務継続を認めているが、定年が延長されるのは、異例のことである。
 
こんな裏事情があるらしい。
 
「黒川検事長と菅官房長官が親しいのは、省内では誰もが知っている話です。黒川検事長を法務省の事務次官に抜擢したのも、東京高検検事長に就けたのも“菅人事”だとみられています。本来、事務次官には、黒川さんと同期の林真琴・名古屋高検検事長(62)が就任するはずだったのに、ひっくり返した。よほど菅長官は黒川さんのことを気に入っているのでしょう。そのうえ、定年延長だから露骨です。これで検事総長の人事も大きく変わる。予定では、黒川さんが2月に定年退官したあと、林真琴さんが東京高検検事長に栄転し、8月に検事総長に就くことになっていた。でも、異例の定年延長によって、もはや黒川さんが検事総長に就くことは確実です」(法務省事情通)
 
「これまでも安倍政権は、積み上げてきた人事のルールを破って、NHKや内閣法制局を支配下に置いてきた。とうとう検察まで支配下に収めようとしている。もはや、この国は三権分立が成り立たなくなりはじめています」と、金子勝・立正大名誉教授は指摘する。
 
一般国民が犯罪を犯せば警察に捕まり容疑が固まれば検察庁に送検され、検事の取り調べの結果次第では不起訴になる場合もあり、検事の判断に左右される。
 
日本の検察は起訴すれば99%以上の確率で有罪になるといわれているが、安倍政権では、逮捕状があっても捕まらないという悪しき前例を作っている。
 
したがって、検察長のトップが政権の息がかかっているならば、もはや総理大臣の犯罪は存在しなくなってしまう。
 
「今回の東京高検検事長の定年後の勤務延長という違法の疑いのある閣議決定によって内閣が検事総長を指名することになるとすれば、政権側が名実ともに検察のトップを指名できることになり、政権側の意向と検察の権限行使の関係にも多大な影響を生じさせる。
 それによって、これまでの検察が至上命題としてきた『検察の独立性』のドグマが、「検事総長人事」という組織の中核から、事実上崩壊することになる。」と弁護士の郷原信郎は、「黒川検事長 国家公務員法の定年後『勤務延長』に違法の疑い」と題したブログで批判していた。
  
安倍晋三は窮地に陥ったらどうすれば逃れることができるのか。
 

<桜を見る会再論>
 2020-02-01 内田樹の研究室
 もうこの話をするのにも飽き飽きしている。「桜を見る会」についての話である。
 どうして「飽き飽き」しているかというと、ふつうの人間の受忍限度を超えて、この話が続いているからである。
 続く理由は簡単で、ふつうは申し開きのできない証拠をつきつけられて「申し訳ありませんでした。私がやりました」として「犯人」が白状して、火曜サスペンス劇場が終わるところで、ぜんぜんドラマが終わらないからである。
 でも、「私がやりました」と言わないというのは、ある意味では「合理的な」ふるまいなのである。
 昔、東京地検に勤めていた友人から、推理ドラマはあれは嘘っぱちだという話を聴いたことがある。検察官に供述の矛盾を衝かれて、顔面蒼白となって、「もはやこれまで」と自白するのは「自分が知性的な人間である」ということにおのれの存在根拠を置いている人間だけだというのである。
「そんな人間は実はめったにいないんだよ。そんなのはね、ウチダみたいな『自分は頭がいい』と思っているやつだけなんだよ。そういうのは、落すの簡単なんだ。供述のわずかな矛盾を指摘しただけで、がたがたっと崩れちゃうから。」
 なるほど。
 だから、ヤクザなんかは供述の矛盾をいくら指摘しても、平気で、「オレ、そんなこと言いましたっけ。あ、それ間違いですから、消しといてください。今日話したのがほんとの話です」と済ませてしまうのだそうである。
 彼らは供述の矛盾や変遷は、それだけでは有罪性の根拠とならないことをよく知っている。
 だから、誰も信じないようなでたらめを言い続ける。「そんなことあり得ないだろう!」と怒っても、「世の中、そういうことがあるからびっくりですよね」と平気で言う。
 自分は矛盾とか、因果とか、蓋然性とか、そういうことはぜんぜん気にならない人間なんです。「ふつうに考えて」という想定ができないんです。「論理的に言って」ということがわからないんです。
 そう言い続けると検察官に「敗けない」ということを彼らは知っているのである。
 自分の知性が健全に機能していないということを「切り札」にしている人間を「理詰め」で落とすことはできない。
「桜を見る会」の国会審議でわれわれが見せられているのは、「ヤクザと検察官」の戦いのひとつの変奏である。
 官僚たちも政治家たちも、平然と自分の知性がふつうに機能していないことを認めている。
「桜を見る会」の招待者名簿にしても、ホテルニューオータニの「前夜祭」領収書にしても、それを「はい」と提示すれば、首相の潔白が満天下に明らかになる文書を、なぜか官僚たちも安倍後援会の人たちも、全員があっという間に捨ててしまった。それが「桜を見る会」と「前夜祭」の合法性を何よりも雄弁に証明できる書類である以上、仮に廃棄期限が来ても、官僚でも後援会員でも少しでも論理的に思考できる能力があるなら、「もしものことがあったら困るから、一応とっとこう」と思うはずである。
 そう思った人間がなんと一人もいないのである。
 つまり世にも例外的に頭の悪い人たちだけで内閣府や安倍後援会は組織されていたというきわめて蓋然性の低い主張によって、首相は「不正が証明できない以上、私は潔白だ」という言い続けているのである。
 こういうドタバタがもう3ヶ月も続いている。
 もう終わりにしたいと思う人は自民党内にもいるらしく、先日は参院自民党に示達された「招待者名簿は公開請求の対象であるので取り扱いに注意」という内部書類が共産党議員によって委員会で暴露されてしまった。
 だが、これほど「申し開きのできない証拠」を突きつけられても、首相の「申し開き」は続いている。
 首相は数日前に、招待者について「幅広く募っているという認識」ではあったが、「募集しているという認識ではなかった」という没論理的な答弁をしたが、今回は招待者名簿について「公開の対象とは書いてるけど、公開されるとは書いてない」という小学生のような答弁をしてみせた。
「開示請求があった場合に公開しなければならない」という注意なのだから、要するに「人選には配慮すること。開示請求があったときに『捨てました』というような無様なことがないようにちゃんと管理すること」というお達しである。自民党総裁としては自民党が示達した注意を二つながらまるまる無視して招待者を選定した上に、書類をさくさくとシュレッダーにかけた内閣府の役人については殺してやりたい「気分」になっていいはずだが、そんな気配もない。
 首相は「自分は論理的に思考しないので、『論理的にあり得ない』ことがあっても別にそれが不思議だと思わない。言葉の語義はわかるけれども、それが含意しているコノテーションはわからない」という「おのれの知性が普通の人よりも不調である」という主張によって有罪性を免れようとしている。
 裁判において弁護人が被告の「心神耗弱」で無罪を勝ち取ろうとするのと同じである。
 この「愚者戦略」はこれまでのところ成功している。
 それは社会制度は世界どこでも「ふつうの人はわりと論理的にものを考える」ということを基準に設計されているからである。だから、その基準にはずれる人間については対処するマニュアルがないのである。
 これから後も首相は有罪を免れるために、あらゆる「申し開きのできない証拠」に対して、「論理的に思考できないふり、日本語がわからないふり」をしてみせるだろう。
 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
 いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。


 
とうとう、安倍晋三は「ヤクザ」並みになってしまったのか。
 
まさか滑舌の悪い、意味不明の早口の国会答弁が「心神耗弱」だから許されるということは考えられないが、少なくとも「おのれの知性が普通の人よりも不調である」とい客観的な事実から考えれば、今後も「愚者戦略」で逃げ切ろうとしているのではないだろうか、とオジサンは思う。

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