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70億人が幸せになる方法[その9]

2015-07-31 05:55:40 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その9]」です。

私の母について、幼少の頃の思い出は、病気や怪我をした時に面倒を見てもらった事と、
たまに作ってくれるカレーライスの思い出くらいです。

基本的に母は専業主婦でした。しかし、家事らしい家事はあんまり上手ではなく、むしろ、無精な方でした。
また、育児に関しては基本的にはほったらかしで、暇があれば横になってテレビを見ている印象しかありません。

放任主義というと聞こえはいいですが、どうやら今でいう育児放棄に近いものだったと記憶しています。

私は特に主婦はこうでないといけないとかはありませんが、それでも最低限、母親としての役割は果たして欲しいと思っています。
子供に教育を受けさせ、躾と食育を行う事が最低限の親の責任だと思います。
私の記憶ではそれらをしてもらった記憶はありません。

もしかしたらそれが功を奏して、小学校に入学する前には自分の事は自分で出来る様になっていました。
また、私自身、割と自由な考え方を持っていて、好きな事には集中して取り組む事が出来ていました。

私が小学校に通う様になった頃には、何かしてもらったという記憶はほとんどありません。
後で父から聞かされた話によると、私が物心つく前に、虐待をされていたという事実があった事は聞いています。

実は私の左手の甲に円形のホクロがあるのですが、それは子供の頃に母から聞かされていた話では、
アイロンの先を誤って手に当ててしまった、という事だったのですが、
父からはタバコの火を押し付けられた、と中学の頃に聞かされて、大変ショックを受けました。

祖母から見たら「とんでもない嫁」だったのでしょうね。今思うと、だから、あんなに母の事を悪く言っていたのだと思います。

また、家庭の金銭事情もよくありませんでした。今でいう貧困層です。
私の記憶では弟が生まれた頃は、水洗トイレのある団地に住んでいました。
しかし、3人目の妹が生まれた頃から、市営住宅に引っ越す事になりました。

父の収入がそんなに多くないのに子供が3人もいると、家計は火の車だったと思われ、
なので市営住宅に住む様になったのだと思っています。

そして、私が5歳の頃にもう一人妹が生まれました。当時の写真が残っていましたが、
写る姿は、その頃には、本当に貧乏で、着ている服もボロボロで、家の建具もボロボロでした。

そんな時私が小学校3年の時に、父が大怪我をおって、母がスナックで夜に働きに出たのです。
その頃には食事はお金を母からもらって、私が弁当と菓子パンを買ってきょうだいに食べさせていました。

でも、まだ自分の置かれた環境の悪さには全く気がついていませんでした。
そんな頃にどうやら母は、スナックの客と関係を持ったのでした。
そして、私が小学校4年の運動会の前日に、父と母が大げんかをしていたのを目の当たりにするのです。
その後、母の失踪と私たちの夜逃げが起こったのでした。

[その10]に続きます。

ではでは。