櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片・1/9

2017-01-09 | ダンスノート(からだ、くらし)
ソロ稽古は次の舞台に向けて暗中模索。抗う。

一回一回どうか。動く。考える、言葉もさがす、しかし考えも言葉も、次に動くとひっくり返ってしまう、こわれる。踊りは動かないと分からないことばかり、分からないから、淡々とやるしかない。そう思いつつも、やはり考え、やはり言葉もさがし、やはり動くとこわれ、、、。
新しいことを探る以上、彷徨うしか何も見つからない。

舞台にあるとき、心身ともに、何かとても危うい感覚に満たされることがある。その危うさというのは不安というやつとは違って、何か野蛮で獰猛な感覚と理性とが冷たく対立した独特のものだ。

心地よいはずはないが、
危ういという感覚には、なぜか魅力もある。

正月に久々に小林秀雄の本を読んでたら、ピカソが絵画の最後の仕上げは観客の視線によって行なわれるのだ、と言っていたと書かれていて、この意見にはとても親近感を感じた。常々ダンスについてこれに近い考えをもってきた。

絵画は自分の眼で観ることができるが、踊りの場合は出来ない。
ピカソがどういう気持ちで言っていたか分からないが、僕のようなソロダンサーにとっては作品そのものが観客の眼なしには成立しない。
僕の場合は作者として以上に起爆剤として舞台にあがるわけで、作品は肉体と観客の相互の五感のなかでしか存在さえしない。
いま、もっとそのことを意識したいと考えている。

爆発したり失速したりする身体。それは危機を孕んだ、危うい身体かもしれない。危うさあっての可能性かもしれない。

どんな状態に身体を追い込んでゆけるかどうかが、ソロダンスの一回一回の稽古かもしれないし、稽古によって凝縮された力の状態が、ある夜の舞台/踊りの生成を決定するエネルギー資源になるのではないかと。

これで大丈夫、と思っているときは、例えスムーズでも、なんだかツマラナイ踊りになってしまう。その日の踊りは自分で観ることが出来ないが、拍手の音にたちまち跳ね返ってくる。良かったという音から残念だという音まで、拍手はハッキリと言葉になって聞こえる。観客と結んだ関係が波のように返ってくるようだ。

作品性プラス、もっと別の何かをいつしか求めて始めている。

経験や記憶から何かをしても予測の範囲内で収まりやすく、発見も進歩もない。辛くないが感動もない。経験や予測というのは気をつけないと、たぶん外から訪れるさまざまな刺激や出来事のタネを遠ざけてしまうのでは、と思う。

こわさ、危うさ、という感覚は未知の何かに近づいている証かとも思う。失敗あってこそ感動もあるはず。
分からないことを敢えてやるときでないと、生には動きが出てこない気がしてならない。



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