櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断想1/10(まず書け)

2025-01-10 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

年末年始の隙間に一人寒稽古というか深夜のフィールドワークを重ね、これが思いのほか収穫があった。新作構想も進めているが、まだフォーカスは待ちたく、あえて直感的というか出鱈目な時間の流れに寒気の刺激が相まって感覚的な受容があったのかもしれない。

年が新たになったらしいが刻一刻の経験はただただ続いて切れ目が無く、あたりまえながら、すでに新しい忘却も始まっている。その流れのなか、経験も思考も何もかも、忘れ思い出しまた忘れながら何かが少し残って、ということが数え切れないほど堆積しているというそのことにふと痛覚を感じる。

思い行い忘却する、という日々の河のなかで意識化されたものが何とか関係しあって、カンガエ、とかいうものが建築されてゆく気がする。これなしに何があるのか。

「まず書け」という言葉とともに、メモをよくとる習慣を子供のころに躾けられたが、これは忘却を前提にしていたのだろう。たとえば8歳のメモを、16歳のメモを、32歳のメモや59歳のメモを、と、膨大なこれの部分部分をふと読み返すとき、なぜか書いたその時の体験的な身体感覚が立体的に甦ってくる、何が書かれているかはあまり関係がないようだ。

メモというのは、その筆跡あるいは模様のようなものでも、その瞬時に書いたものなら何かしら記憶を呼び覚ます導火線になるらしい。考えるよりも、覚えるよりも、もっとすぐに、まず書くべきなのだ。踊りの稽古にもメモはあって、それは言葉ではなく運動感覚を肉体に刻印してゆくこれは暗黙知の蓄積行動と更新行動の鎖だ。インプロヴィゼーションの変化はその人の変化そのものと言えるのもこれに重なる。「踊り」は「経験」と「考え」と「身体」が深く結びつくものと思う。連続と非連続には実は境界がないに違いない。

これらに関連しているかいないか、シュタイナーが読み解いた「まず語れ」という古人の秘儀について、その凄さを年々痛感する。が、まだその前に僕個人はさっきの「まず書け」というところから再出発するしかない気がしている。再出発ばかりだが、それを続ける。さて。

 

 

 

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Stage. 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト

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