櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演企画開始  ◉クラス=コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片5/1(すばらしかった『ニッポン国VS泉南石綿村』)

2018-05-01 | アート・音楽・その他


ある日ある問題について一斉にニュースが流され、しかし手早くまとめられ、しつこく繰り返され、私たちは馴れっこになって、ある日、差し替えられるように全く別の問題が一斉に報じられて、それは埋もれてゆき、
いつしか問題はより深刻に拡大していたとしても、私たちは忘れ、、、そんなふうなやり方と真っ逆さまの仕方で、徹底してひとつの問題を追い、抗うように私たちの前に問いを差し出してくる人が、ドキュメンタリー映画の原一男監督だと思います。

必ず観に行きます。
この人の作品を見るたび、よし!と、やるぞ!と、生きるぞ!と、思えるのです。
この人の作品から伝えられたものは深く刺さり、こころのなかでさまざまに膨らんでいきます。

ドキュメンタリー映画というのはダンスにも共通するパッションとか行動があるのではないかと僕は勝手に思ってきたけれど、この監督の『極私的エロス・恋歌1974』に出会っていなかったら、そんなことを思ったかどうかわかりません。
その映画の内容と僕のダンスには、もちろん直接の関係はありません。だけど根深いところで、あるいは生理的なところで、つながる何かを感じた経験があります。
生きている限り僕は踊るとおもうのですが、その理由は、僕の中で命が反乱をするからだとおもうのです。
ダンスが肉体からはみ出してきて抑えきれない。それは劇や文章とちがって何かの思想とか意見がまとまって誰かに伝えたくなるというのとは、まるで違う。これから何がどうなるかなんてわからないままに、無我夢中で行為が先行してゆく。そして、これは何だと自分でも考えるが、観る人も完全に自由に考えてゆく。虚構だのイメージだのの力ではなく、現実を生きて沸騰する力が肉を揺さぶるのだから、ダンスは現実そのもので僕の命が尽きても完結しない。そのような「せざるをえない」行為性とか沸々たる感触を全くダンスとは別の領域でも感じることがあり、勝手ながら、原一男さんの先述作品にすごく強く感じたのでした。

最新作の『ニッポン国VS泉南石綿村』は、国家を相手に立ち上がった人々のドキュメンタリーでした。
国はアスベストの有害性を知っているのに、お金の問題を理由に、それを扱う工場の人々にも周辺住民にも知らせなかったと裁判で訴えるのです。アスベストを吸い込むと肺に突き刺さり長い年月の潜伏期間を経て発症し、治療法は無く苦しみながら死を迎えるしかないのです。恐ろしい公害の賠償を国に求める大阪泉南の人々。その裁判闘争を、この映画は克明につたえます。
人間が、大きな力に対して怒りを表現し、あきらめずに向き合ってゆく記録でもあります。

映画の中では本当の時間が流れています。映画の中で、一人一人の生活が変わってゆく。
映画の中で、年齢も、顔つきも変わっていきます。つらくとも笑顔をカメラに向けていた方の、怒りに震えていた方の、何人もが亡くなっていきます。画面を見つめながら、こみ上げてくる感情を抑えることができなくなる瞬間も度々あります。
8年もつづく裁判のあいだ、闘争現場と人々の生活の場を撮影し続けて製作された作品です。撮影することは被害者の方との信頼関係をつくり受け容れてもらうことでもあると思います。並大抵の努力ではつくり得ない作品だと思います。

渋谷円山町のユーロで2度観て、2度目は東京上映最終日だったがエンドロールのあとすぐに監督が登壇されて都内在住のアスベスト被害者の方とエネルギッシュに対話を開始され、それは映画の続きが始まったようでもあったけれど考えてみればドキュメンタリーが完結するわけはない、そう、何も完結しないのが現実なのだから、こうやって人は何かをつくり何かを話すのだと、当たり前のことがまた胸を叩くのでした。それは現実そのものに向き合い続けている迫力なのかもしれないです。

原監督と小林佐智子プロデューサーがされている会社は「疾走プロダクション」というそうだけれど、すばらしい名前だと思えるのは監督の映画が実際に「走っている」からだと思います。まさに疾走するように生み出され上映されるドキュメンタリーは僕を傍観者やら鑑賞者の居心地に甘えさせてはくれない。お前はどうなんだと自らに矢を向けざるをえない何かがきっちりと、来ます。

渋谷は終わったけれど、横浜や川崎ではまだ見ることができます。5日からの京都など、全国展開が始まるそうです。

HP


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