Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

箱庭。

2006-10-10 | 徒然雑記
 僕は箱庭を作るのが好きだった。
自分の理想の庭を、夢の世界を、云うなればまだ見も知らぬ美しきユートピアを、両の手で抱えきれるくらいの小さく区切られた箱庭に表現することが愉しかった。外界と隔絶された、実際にはその中に人が歩くことも住まうこともできない小さな世界。僕は想像の中でアリくらいの大きさになって、出来上がった箱庭の中を自由自在に闊歩する。

土を敷いて、苔を重ねる。玉砂利のかわりに、荒い砂を盛る。
黒松の小枝を折り取って、生やす。
次いで赤とみどりのもみじの枝を。小さな欠片を。すすきの穂やエノコログサを千切って作った下草を。
河原で拾ってきた綺麗な石を添えて、ときには涸れた水路に水車の模型や数寄屋造りの家を置いて。

 本当なら、その箱庭に相応しい、赤く染まった秋の夕焼け空や、高く澄み渡る空を駈けるうろこ雲も描きたい。木々を黒ずんだ艶に彩り、その首を項垂れさせる長雨も。だけどそれは叶わないから、僕は自分の心の中に存する安らぎの風景から地上の姿だけをそこに写し取って、かろうじて満足する。

ある日僕は作りかけの箱庭を庭先に置いたままにして、床についた。翌日は日曜日だった。
昼過ぎに目覚めた僕が、さて昨日の続きを作ろうかと嬉々として庭先に足を下ろした瞬間、子供のように衝動的な憤りが背筋を駆け上がるのを感じた。僕の作りかけの箱庭の真ん中に、くっきりとひとつの靴跡が残されている。

ゆたかな苔は踏みにじられて土砂にまみれ、赤いもみじの枝は無残にも切り裂かれ、玉砂利は台風の後のように乱れ散っている。崩れ去った世界を覆うようにただひとつくっきりと残された、無邪気な深い靴跡。
僕は憤りにまかせてその箱庭を辺りにぶちまけた。大人気ないのは百も承知だが、子供じみた涙をこらえるすべをそのときの僕は他に思い浮かべることができなかった。
つまらない日曜日のつまらないこの出来事は、僕の愛すべき世界が、僕の理想とする行き先が、身勝手な他所からの威力によってあざ笑われたのと同じことだ。

 忌々しい気分を振り切るように、街へ出た。秋の長雨が去ったばかりの空は鮮やかに澄んで、もし昨日この空を見ていたならばどんなにか心洗われたろうと残念なくらいに、それはそれはよい香りの空気で満ちていた。僕は眉間に皺を寄せて空を仰いだ。その視界の端を、色づきはじめたもみじの枝が横切った。

  もみじは僕の世界にもう要らない。

それを見なかったふりをしてぷいと僕は顔を背けた。視線の先には、外苑に整列するよく手入れされた松の並びが見えた。

  松も、もう僕の世界には要らない。
  ふかふかした苔も、赤い実のついた可愛らしい南天も。
  風にその身を揺らしてしゃくしゃくと秋を奏でるすすきも。

  もう、要らない。


残されたのは、荒れた赤土と、虚空を貫く電信柱。
そして、幼い僕の世界を踏み潰そうと降りてくる、あの靴跡。