Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

虹の扇。

2005-11-29 | 徒然雑記
 馴染みの喫茶店で日課となっている昼下がりの珈琲を飲んでいたら、ガラスの壁に「ごしゃん」という重くてちょっと間抜けな音が響いた。
今日は風が強かったから、上階から何かが落ちてきたのかしらと思って外を見遣る。音のわりに大きなブツは転がっていないようだ。視線を下のほうへ移してゆくと、丸っこいものがもそもそと蠢いているのが見えた。

あぁ、キジバトか。
キジバトはツバメと異なり、ガラスの窓を判別できないらしい。そうはいっても、まだ日暮れにはかなり間があるから暖かそうな灯かりに誘われた訳でもないだろうし、一階でしかも間口のさほど広くない店のガラスにぶつかるなんて、なかなかに頓馬な鳥種であることは否定できない。

半分ほど残っている珈琲を一旦放り出して、外に出る。
腹を上に向けて引っくり返った状態で首を左右に小刻みに傾げながら無為に足をぱたぱたさせている丸っこい鳥玉は、できるならそのまま暫く眺めていたい残虐な愛情を感じさせるほどの可愛らしさを呈しているのだが、救出するために外にでたのであるから、そうもゆかない。驚愕で逆立てているふわふわした羽の間にそっと差し入れた両の手指がふわりと柔らかい生き物の熱に包まれる。自分でない別の生き物の発する温度はこちらの心を一瞬で溶かしきってしまうくらいの、不用意な優しさを持っている。その甘ったるい温度に心がきゅぅっと締め付けられるのを抑えつつ、なるべく驚かせないようにとこの上ない繊細さをもって、鳥玉をころんと正しい向きにひっくり返した。

先ほどの鳥玉は野生のキジバトに戻った。
けれどキジバトの習性として、なんらかのアクシデントやショックがあった直後はなかなか飛び立てずにその場に凍り付いてしまうため、大きな外傷があるかどうかは一見して判りにくい。頓狂な眼をして周囲を見回す首は正常に動作し、瞬きもしている。脊髄と首の骨はどうやら大丈夫そうだ。しかし果たして、再び飛べるのか。

 野生の鳥は、迂闊に触ると外傷ではなく心的ショックで死に至る。ひと時ばかり逡巡したが、今日のキジバトに関しては「私の手なら大丈夫」という根拠のない自信があり、座り込んでしまっている無力な生き物の羽の内側の最も暖かい部分に掌を差し入れ、羽の骨格を手探りで確かめた。本心は、あの温度にもう1度触れたかっただけなのかもしれないが。

羽の根元をきゅっと探ると、ばさっと細かい羽毛を散らして羽が大きく開く。羽は左右とも扇のように美しい広がりを見せ、キジバトの名が示す通りのセピアがかった虹色の艶を明らかにした。空を斬り、風を操る虹色の小さな扇の繊細で美しいことといったらない。なぜ人間はその身にこのような美しい艶とデザインを持たず、このような無粋な進化を遂げてしまったのだろう。
心細げに揺らめく遊色のさざなみも、華やかな舞扇のひらめきも私にはない。

キジバトは大人しくその羽を私に預け、小さな声すらも立てずに首をきゅっと大胆に曲げて背後に屈み込む私を見た。無事を確認した羽から手を離すと、キジバトは故意にゆっくりと片方ずつ、静かにその羽を畳みこんだ。
私は席に戻り、冷えた珈琲の残りをすすった。

約一時間ののち、思い出したかのようにばさっと大きく両羽を振りかざして、キジバトはそのくすんだ虹色の扇に風をはらませてふわりと宙に舞った。