Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

拾い魔の納得。

2005-11-10 | 徒然雑記
 ※関連記事
「拾い魔の憂鬱。」
「天心先生、ご機嫌麗しゅう。」


最近、「オーラの泉」という番組をたまに観る。昨日の放送は、ゲストまで霊感爆裂だったので、大層面白く、腹を抱えて笑わせて貰った。こういう「本物の」霊能力を持つ人々が居並び、その能力を解放させている番組を見ると、テレビのこちら側までその威力が及ぶことがある。霊感の弱い人にとっては殆ど無自覚であろうし、私も力が強くはないので何にかが見えることはないし、直接的なメッセージを受け取ることはできない。ただ、腑に落ちなかった出来事や見逃していた出来事の意味に気付かされて、「あ、そうだったのね、どうもどうも。鈍くてスイマセンね。」という気持ちになる程度のことである。

昨日は「判るそれ!」とゲラゲラ笑い転げていた間にも、ふたつ納得できることがあり、折角なのでご報告させて頂くことにする。

ひとつめ。
前記事で「日光になかなか行けない」と書いたのだが、その月に実はあっさりと日光ゆきが実現してしまって、ありゃりゃおかしいな?と思っていたところだったのだ。度々あからさまに妨害され、引き留められていた日光行きをもし私が無理矢理に敢行させてしまったとしたならば、現地で何かトラブルがあったり、後になって何か厭なことでも起こるかなと思っていたのだが、何も起こらない。「あっさり行きすぎてどうもおかしい」という不可解な気分になっていた訳だ。

不思議と云えば不思議で、脈絡がないと云えばないのだけれど、テレビを見て大笑いしている最中に上記の家紋(我が家の家紋だ)がぽっと頭に浮かんで、あぁそうか、と思ったのだった。
読者の方にはご存知の通り、私は今年の七月に高野山を訪れている。その際、至極当然のように徳川家霊台に立ち寄っているのだが、そこは徳川初代(家康)と二代(秀忠)の霊廟であり、知らぬ間に私は墓参りを済ませていたことになる。だからこそ翌月に三代(家光)が祀られている日光に行くことをようやく許された訳だ。簡単に云うならば「墓参りの順序が違うんじゃワレ!」ということである。

上記の家紋は松平諸家がよく用いていたもので、私の家系は伊予の海軍河野氏の筋と松平(のちに伊予地方では松山城を治めている)との両家に関わりがあり、駿府城にも無縁ではない。確かに、赤の他人ならいざ知らず、多少なりの身内であるならば墓参りの順序くらいはきちんとして欲しかったとしても頷ける。
因みに私は中学と高校の6年間を、駿府城の堀内の学校で過ごしていたりもする。
それらの全てが、ようやく繋がった。

徳川ゆかりなのに日光に嫌われていたわけではなくて、本当によかった、と思う。


ふたつめ。
テレビの中の霊感爆裂なお三方が「回される」と表現した現象がある。
ある土地を訪れたとき、背中に誰かが軽く憑依して、その人にある意図を持ってある場所に連れて行かれてしまうことを指し、その「意図」に当人が気付くまで延々と懲りずに同じ場所に連れて行かれるという。
私は札付きの方向音痴なので、回されているのか回っているのかはっきりしないことの方が多いのだが、先日は明らかに迷子に「させられた。」

日光に行ったのと同月、北茨城の五浦という地に赴き、岡倉天心の日本美術院跡及び旧居を訪れ、次いで天心の墓参をしてきた。
そのことも忘れかけていた先月のある日、谷中で用事を済ませたあと、「近道をしよう!」と思って方角だけを頼りにあてずっぽうで道を曲がったら、うねうねした住宅街に誘い込まれ、まんまと迷子になった。次の約束の時間には確実に遅れてしまうので、雨の中を友人に携帯メールで謝罪しつつ、なぜか道を戻らずにある種の確信を持ってその道を歩いていたところに出逢ったもの。

猫の額ほどの公園の入口に岡倉天心記念公園の文字。
・・・なるほど。

ここは、天心が日本美術学校を追われたあと、明治31年に日本美術院を創設した場所であり、天心の旧居でもある。このあと天心は五浦へ移り住み、最終的にふたたび谷中(今度は三崎坂)に戻ってくることになるのだが。

天心先生が、五裏で百合を手向けた私を覚えていてくれて、「よう。上がってけ。」と呼んでくれたということか。
迷子の最中なので道なぞ覚えているはずもないが、また行こう。
行けるはずだから。


 追) 読者の方の中に、本物の霊能力をお持ちの方がいらっしゃれば、
    是非私の鑑定を依頼したいところです(笑)