Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

旨い豚。

2005-11-09 | 徒然雑記
うとうとしていたら、なにぶん唐突にこんな言葉が脳裡をよぎった。
「自分の親は自分にとっていちばんの理解者であって欲しい。」

大概の子供はたとえ幾つになっても、心のどこかでそう思うものではないだろうか。しかし往々にしてそううまくはゆかず、子供は親の一方的な決め付けと理想および誇大な妄想の犠牲となり、親は自らの妙に現実味のする妄想の捕囚になって、子供の顔をしたドッペルゲンガーを前にして恐怖とむき出しの敵意を向けることを惜しまない。

父という名のひからびた案山子、母という名の貪欲な人がいるとしたら、子供はよく飼育された豚であり季節になると豊富な実をつけるに相違ない豊かな麦にすぎない。

「台風がきてしまったから、今年の麦はよくできなかったよ。」
「確かに台風はきた。だけど何故麦が実らなかったのを台風のせいにするのかね。案山子の役目を無駄にする気かい。」
「放っておきなさいよ。豚は豚。旨けりゃいいのよ、それで。」
「旨いかどうかなんて、食ってみなけりゃ判らないじゃないか。」
「旨いって先に云ってしまえば、豚は自分からちゃんと旨くなってくれるものよ。」
「なるほど、そんなもんかね。ときにこいつは何時から豚なんだね。」

こんな阿呆な会話が展開されながら、案山子はせっせと自分の装身具を磨き上げ、人は目を閉じて空想の中の豚がどんなに旨いかを想像して口をだらしなく開けたまま垂涎するわけだ。

 なに、本当にその豚は旨そうなのかって?
                      知るか!

黒ずんだ前歯の欠けた、いつも右の前足でがりがりと神経質そうに床をかじっているこの黄色とも茶色ともつかない生き物がもしお前の目に豚に見えたとして、そうしてそれが垂涎を引き起こすのであれば、多分それは貴様の期待を裏切って、涎ばかりか泪まで流させてしまうくらいには旨いに違いない。
だけどまぁ、もし旨くなかったとしたって豚に騙されたとかって騒ぐのは酔狂だ。首をかき斬られた豚は既に泣いて謝ることもできやしないんだし、してやったりとぺろっとその可愛くない舌を出すことだってできないのだから。

 だから、ほら、あいつの云うとおりなんだよ。
食う前から旨いって云ってやれば、場合によっては豚が自分から慌てて旨くなってくれることもあるんだろうし、ないかもしれない。
心根のひねくれた豚だったら、旨くなんかなって堪るもんかと自分の勝手なタイミングで銅鑼に頭をぶつけに突進してゆくかもしれない。

 要は、あれだ。
 旨い豚なんて最初っから、いないんだよ。