With the I Ching

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外格(従格)とは質的転換の産物なのか

2010-12-23 22:03:35 | 四柱推命

四柱推命を学ぶ上で避けては通れないのが、格局の問題です。

細々としたものも含めれば実に多くの格が考え出されていますが、大別すれば外格か内格かに集約できると思います。現在、外格を特別格局、内格を普通格局と呼ぶ方もいますが、おそらく意味することは同じなので、名称にこだわる理由はないでしょう。(ちなみに僕だったら、一般格と特殊格とでもします)

で、結局、「格とは何か」ということを考えると、それは一種の“型”なんだろうと思っています。
修練を要するあらゆる道に付随する型――いわば将棋や碁の定石のような見方ではないかと今の僕は考えているわけですが、四柱推命ではその二大型として、まず内格と外格という分類があり、さらにそれぞれの中で幾つかの種類に分けられています。

四柱推命白帯の解説ページの「雑感」でも書きましたが、これらは占星術での惑星パターンと似た印象があります。

それは、ある種のパターン化された思考法なので、中にはその枠内に収まらない人(ホロスコープや命式)も出てきます。それなのに、無理に何かの格に当てはめて解釈しようとすれば、それに符合しなくなる大運時期などでは事象が読めなくなりますし、その矛盾した結果に余計に悩んでしまうことにもなりかねません。

まだまだ調査数が少ないので強くは言えませんが、個人的には、格の選定というのは出生時点(命式上)で固定的に捉えることは無理なのでは? という見解を抱いています。つまり、出生の時点で「あなたは、これだ」と断定することは必ずしもできるわけではない・・・

そうなると何を基準に判定するかということになりますが、やはり命式と大運(などの行運)とを総合的および動的に考慮することが肝要だと思います。もともと大運は命式から派生した体内時計のようなものなので、切り離して考えることは不可能だからです。

もちろん、人によっては生涯ずっと同じ格が維持される人もいると思います。例えば強烈な従旺格の人とか。根や蔵干が生来の偏向を崩さない配列になっている場合は、大運でのどんな時期でも本人はほとんどブレないからです。

しかし、一方で出生命式自体は何かの外格(従格)でも、大運での各時期で偏向性が低下してしまい、内格と変わらない力量配分になってしまう人もいます。また例えば、ある時期は従殺格でも、その時期が過ぎて別の大運に入ると今度は従財格の形になってしまう、といったこともあります。格が一定しないわけです。

そうなると、いわゆるアイデンティティ(自己同一性)が浮動してしまい、精神的にも落ち着かなくなって、「自分とは何者なのか?」と自問自答する傾向が出てくるんじゃないかと思います。

逆に言えば、一生涯同じ格が持続する人ならば、自分(の生き方の方針)を見失うということが起こりにくいのかもしれませんが、それはそれで視野が狭くなりがちだと思うので、周りへの配慮とか気遣いに欠けないように、また、融通が利かない人と揶揄されないように注意が必要かもしれません。


っと、今日はそんなことを書こうと思っていたんじゃなかった。(汗

実は昨日、鍋のお湯を沸騰させていて、ふと思ったんです。「あ、これって外格かも」って。
要するに水の状態変化と外格・内格の定義って似ているんじゃないか、という話です。

水は、熱量の増減によって温度変化を起こしますが、摂氏100度や0度になると、ついには質的転換を起こします。つまり、水が氷になったり、水蒸気になって気化していく(相変化の温度については、各物質でまちまちですが)。この相転移が内格と外格の違いなのかもしれない、と思ったんです。(水の場合は構造相転移というらしい)

ちょうど数学でのサイン・コサインみたいな波ではなくて、タンジェントのような極端な上がり下がりのようなものじゃないかと。三角関数自体は周期性のあるものだけれど、タンジェントの場合、そのグラフからしてサインやコサインとは別物になっており(「三角関数のグラフ」)、たぶん、こういうのが外格なんだろうとイメージ的には捉えています。

量的変化が質的転換する時というのは急激なものです。例えば宇宙でのビックバンがそうであるように、ある一線を越えると突然に変わります。その時の転移熱(潜熱)が爆発として周囲に波及し、現在の宇宙を形作ってきたそうです。(これ、従旺格における食傷=洩みたい)

で、四柱推命のような運命学の場合、出生時点での外的な力や条件で外格の資質が整うと考えるよりも、それ以前の、・・・今はやりのスピリチュアル的な言い方をすれば、前世とか過去世(アナザー・ライフ)での経験の蓄積が、この人生での出生の条件になっているのではないか、とも思います。

おそらく、何らかの“特別な強い思い”とか“過去生での継続的な経験”があって、この人を特定の五行の偏る命式の持ち主に質的転換させた、みたいな。

それらの要素・要因が何なのかは人により様々だと思いますが、いずれにせよ、エネルギーを偏らせることで特定の目的に注力する必要があって今の人生の出発点を迎えた(または自ら選んだ)、ということなのかもしれません。

でもまあ、そういう話は証明のしようもないので、どれだけ書いても眉唾物の話です。

とりえあず今言えることは、内格であれ外格であれ、また時期によって変動する生まれであれ、それぞれに何らかの意義や目的が存在している可能性がある、ということです。

誰しも「何のための人生か」を事あるごとに考えるものですが、一生同じ目的に生きる必要がある人は実は多くないと思います。大概の人は、各時期で自分の役割を見つけて、その中で自分を生かしつつ周りの人達と共生する道を見出すという、そのプロセスそのものに意義があるのではないでしょうか。

まあ、現実には中途半端な外格に相当する人もいて(・・・自分とか(笑))、無駄に苦悩を背負い込みやすくて損な印象もありますが、そういう場合でも、“煮え切らない状態”というマニアックな経験を魂が求めていたか、そうした状況での学びを必要としているのかもしれません。

この内格か外格かということは、喜忌判定そのものを変えてしまうため重要な問題です。
できれば、これを沸点や凝固点・融点ように、変化のライン(=転移点)を明確に決定できるといいのですが、今の僕はまだそれを模索している状態です。今後、その辺りのことを究明できるよう願って、今日の記事を終えます。



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