“「誰でも」読めるメッセージとは、つまり、確かに伝わる「誰か」をもたないメッセージにすぎない ”
6月に秋葉原で事件が起こったときに新聞のコラムに書いてあった、このことば。
あれ以来、わたしの中のどこかでこっそり引っかかり続けています。
引っ掛かりを解こうにも、どこに引っかかってるのかよくわからないって思ってたんだけど、それはわたしが認めたくがない故に、わからないって思ってたまでなのかもしれないと思えるようになりつつあります。
わたしが、ここでこうしてぼそぼそと書いていること、それはまさに、あのことばのまんまなんじゃないかって感じながら書いていることが、引っ掛かりの始まりなんだろうなぁ、と。
誰宛でもない、もしかするとわたし宛ですらないこのブログを書いていることは、決して無意味だとは思わないし、無駄だとも思いたくないけれど、これでいいのかな?ってたまに思うんです。
「これでいいのかな?」の、最大の「これ」は、ここに書いていることを、あまり口にしていないこと。
書いたことで、頭の中を少しは整理できてるはずなのに、例えば、ライブを観て感じたことを、ここに書くだけで、あんまり誰かと話していない、聞かれたら、ちょろっと話してみる・・・。
その話の内容だって、ほぼ事実の羅列。その事実から何を感じたり考えたりしたかなんてことは、あんまり口にしていません。情けないけれど、これは例えのライブだけに限らず、ほぼすべてに言えることだと感じています。
その念頭には、「わたしが感じたり考えたりしていることを聞かされたって相手は楽しくないだろう」って思って、さらに「わたしが何を考えているか知られるのが恥ずかしくて居心地悪い」とも思ってしまうところがある。別に聞かれて困るようなこと考えてるわけでもないし、たいした考えを持ってるわけでもないのにさ。あ、持ってないから、聞かせられないのもあるのかなぁ・・・。
これは性格だから今更仕方ない、なんて思いも逃げるための理由として持っています。だけどやっぱりこれって寂しいよなぁって思っているのが本音。
事実の羅列だけではあったとしても、わたしの口から出てくることばを聞いてくれている相手にも失礼だってことももうとっくに気付いている。
気付いてるのに、うまいこといかなくて、でもやっぱりわたしの感じたこととか考えたことを聞いて欲しい思いがどこかあるから、見るも見ないも相手におまかせできるここに、一方的に書き溜めてみてる。
自分が逆の立場だったら、誰かの感想や考えてることを聴くことに対して楽しくないなんてちっとも思わないし、むしろ楽しくも、嬉しくも思ってるのに。
なのに、自分のことをあんまり話せないのは、実は気付いてないところで、人のことをどうでもいいとか感じちゃったりしてるのかなぁって想像してみたりもします。
誰に宛てているのかよくわからない、このブログに書いてることを、少しでも誰かに伝えられるようになりたい。
なんとかしてみよう、と思うこの境目の日。
明日になったからといって、何かが突然変わるわけではないけれど、書くことで何か方向を見つけられたらいいな、と思って。
あしたは、もう9月です。