ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

尾崎豊という天才アーティストについて語ろう、と思う

2008-04-24 19:45:20 | 芸能
○尾崎豊という天才アーティストについて語ろう、と思う

尾崎豊という夭逝した天才アーティストに関する評価は、多分かなり割れるはずである。尾崎を否定的に見る人々は、その否定的な素材をいくらも彼の周辺から捜し出すことが出来る。まず尾崎はジャンキーであった。薬と酒に溺れた。勿論女性にも溺れた、と推察する。そして尾崎は若者の屈折した社会に対するある種の呪詛を代弁しているかのようだが、彼自身は立教大附属高校へ通学していた恵まれた家庭に育った人間である、そんな人間の紡ぎだす言葉からは、本当の社会的弱者の本音など描けはしない、という、僕から言わせればひどく的外れな批判ばかりである。確かに尾崎は有名なジャンキーであり、酒好きであり、女好きであっただろう。しかし、彼が所謂中流以上の生活を青年時代に送っていたことが、尾崎の存在理由を濃密なものにこそすれ、それを希薄化する素材には絶対にならない、と僕は思う。尾崎の出発点とはまさに己れが恵まれた家庭環境に育ったという、その時点から、自ら社会の底辺で、若さというエネルギーを持て余しつつ、社会という壁の前で呪詛している若者たちの精神の荒廃の場へと急降下していったことだろう、と推察する。尾崎豊とは、全てを捨てて生きよう、とした、世界に対して丸裸で立ち向かおうとした、勇気ある人格と才能に溢れた存在だった、と僕は思う。

残念ながら、僕が尾崎豊の存在を知ったのは、あろうことか、尾崎が薬と酒によって心肺停止状態で他人の庭先に、倒れ込んで密やかにこの世を去ったところから始まる、尾崎のドキュメンタリードラマを観てからのことなのである。その頃、僕はすでに40歳を超えていた、と思う。そして僕は、当時すでに過去の思想家・文学者となり果てたジャンポール・サルトルの「存在と無」という未完の哲学書を読みふけっていたのである。なぜ「存在と無」だったのかはいまに至っては定かでないが、たぶん当時教師という仕事の限界性ー中途半端な形でしか生徒の苦悩に立ち入れないことの不全感に悩まされ、自分の存在とは一体如何なるものなのか? という深い疑問があってのことだった、と記憶する。「存在と無」はかなり難解で、読み解くには手間のかかる高い壁のような思想に満ち溢れていた、と思う。読みながら、ベートーベンのピアノ変奏曲をリヒテルという天才ピアニストが奏でる音を聴き、グレン・グールドという、これも天才ピアニストの「ゴールドベルグ変奏曲」を聴き、果てはバルトーク作曲の弦楽四重奏曲の数曲で心乱れて、本を投げ出しテレビのスィッチをたまたまひねったら、尾崎豊のドキュメンタリーが放映されていたのである。最初に僕の耳に飛び込んできたのは「15の夜」であった。正直体が硬直した。感動したのである。何で40歳を超えた中年男が、尾崎の、しかも「15の夜」に心を抉られたのか、いまとなっては詳細に語ることが出来ないが、たぶん、尾崎のささくれだった心の刺が僕の膚に突き刺さって、あたかも血を流して心地よい生の錯誤に似た感覚だったのではないか、と思う。

その日を境に僕は尾崎豊の、たぶん最も年齢層の高い強烈なファンになった。尾崎が紡ぎだす詩の豊さには、稚拙さも混じってはいたが、確かな真実が汲み取れた。生の真実の全てとは決して言わないが、かなりの容積の、人が生きるという歓び、哀しみ、切なさ、抗い、敗北感、不全感などが、どっと雪崩を打ったように僕の脳髄の中に流れ込んできたのを否定などできるはずがなかった。メッセージ性のある歌手など腐るほどいるが、尾崎には何より、美しい声と表現力が確固とした形で備わっていたし、尾崎のメッセージは、メッセージに留まらず、それはある種の思想の高みまで到達していたのだろう、と確信する。若き尾崎が、全存在を懸けて美しい曲相に乗せて自己の思想を発信しているのは手にとるように汲み取れた。彼の有り余る能力を発揮し切るのに、それらがお気楽な生きざまの中から生み出されるとは到底思えなかった。たぶん、尾崎自身の限界を破るためには、危険な薬が必要だったのだろうし、浴びるほどに酒を飲んでもいたのだろう、と推察する。尾崎は、自分の生を切り刻むように、己れの思想を紡ぎだしていたのだろう、と僕は思う。たぶん僕は尾崎の歌を聴くとき、姿勢を正して聞いていたような気がする。すでにこの世を去っていた尾崎豊という存在に深く頭を垂れるように、彼の作品の一つ一つに対峙していた、と思う。尾崎が生きていたら、たぶん当時の僕の年齢くらいにはなっていただろうが、その年齢に達した尾崎がどのような曲を創るのか? などという想像は無意味である。尾崎は死した年齢の前の尾崎にしか書けなかった曲を書いたのであり、そして、尾崎の死後もやはり、彼の思想性と美しさとは相まって、いまに至るも、僕の胸を深く抉らざるを得ないのである。

尾崎豊は生きた。まさに短い生涯を生き抜いた、と僕は思う。生活のゴタゴタの中で失った尾崎のCDを再び手に入れた。何も変わっていないはずの尾崎は、さらに洗練された尾崎豊として、僕の前に再登場してきたのである。60歳になっても尾崎を評価できるか? と問われれば、躊躇なく、イエス、と僕は答えるだろう。いま一番のお気に入りは「OH MY LITTLE GIRL」である。美しく、かつあくまで切ないのである。抗えない自分を再認識した。今日の観想である。

○お薦めCDー<尾崎豊 愛するものすべてに> 尾崎豊という個性に同調するにせよ、反発するにせよ、ぜひとも一度は接近していただきたい、と願っています。お薦めのCDです。ここからどうぞ。

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長野安晃


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